令和と平成で「美女観」はどう変わったか
2018年、韓国のWeb漫画(ウェブトゥーン)として連載された『女神降臨』(著・yaongy)は、令和の時代の価値観を色濃く反映した作品だ。2020年には韓国でドラマ化し、世界中でヒットを記録。日本ではLINEマンガにて配信され、今年の3月には、Kōki主演で日本でも『女神降臨 Before 高校デビュー編』、5月には『After プロポーズ編』が公開されて話題になった。
同じく、「外見の美しさ」をテーマにした漫画で『ヘルタースケルター』がある。1995年に『FEEL YOUNG』(祥伝社)で連載された岡崎京子による『ヘルタースケルター』は、外見への過剰な執着とその裏に潜む狂気を描いた衝撃作。2003年には日本メディア芸術祭マンガ部門優秀賞、2004年には手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞し、2012年には沢尻エリカ主演、蜷川実花監督で映画化された。
両作は時代背景やアプローチの違いから、私たちの「美の理想像」がどう変化してきたのかが浮き彫りになる作品だ。令和と平成、それぞれの「美しさ」をどのように描いたのか。今回はこの2作品から、時代が求める美のかたちを紐解いていきたい。
理想的で親近感のある『女神降臨』と孤独と狂気を背負う『ヘルタースケルター』
『女神降臨』の主人公・谷川麗奈は、すっぴんに強いコンプレックスを持つ女子高生。いじめられた過去をバネにメイク技術を磨き、別人のような美貌を手に入れ、新しい学校では“女神”として注目を集める。
本作のヒット背景には、第4次韓流ブームに加え、韓国ファッションやコスメの描写がリアルで「真似したくなる要素」が詰まっていたことも大きい。そして何より、麗奈の明るく努力家な性格が、人々の心をつかんだ。
麗奈はコンプレックスを乗り越えていく中でも、他者を思いやる優しさを失わない。容姿端麗なクラスメートに嫉妬することなく、友人として関係を築こうとする。周囲とも基本的に良好な関係を持ち、「外見が変わっても内面は変わらない」ことが強調されている。
一方、『ヘルタースケルター』の主人公・リリコは、すでに「完成された美しさ」を手にしている存在。しかしその美貌の裏には、度重なる整形手術と精神的な崩壊がある。彼女の身体は“目・耳・髪・性器・爪”以外、すべて人工的に作られたものだ。
トップモデルとして君臨する一方、リリコは後輩の天然美人に異常なほど嫉妬し、感情の起伏に振り回される。業界からのプレッシャー、薬の副作用、孤独……。すべてが彼女を蝕んでいく。
美しさの果てにあるはずの「幸福」からどんどん遠ざかっていくリリコ。その姿に、私たちは共感というよりも畏怖を抱き、彼女のようになりたいとは到底思えない。ただただ「美しさの代償の重さ」に圧倒される。
あえて“ビフォーアフター”を晒す令和
『女神降臨』が令和らしい作品である理由のひとつが、「ビフォーアフター」を物語の軸に据えている点にある。
これまでにも“正体を隠して恋愛する”作品はあったが、本作は初めからイケメン男子・神田俊にすっぴんの姿を見られていることが新しい。また、メイク後の姿も物語の序盤から見抜かれ、すっぴんとメイク後の姿は同じくらいの比重で彼の前に登場する。クラスメイトにはメイクで変身していることを秘密にしているが、家族や彼の前では飾らない姿でいることが多い。
物語では、変身後の美しさ以上に、変身までのプロセスが丁寧に描かれており、メイクシーンも普段の生活で気軽に真似しやすい技術が紹介されている。それがYouTubeでの「女神降臨メイク」動画の流行にもつながり、メイク再現動画のなかには数百万回再生されたコンテンツも存在する。
「冴えないビフォー」があるからこそ、「完璧なアフター」がより魅力的にうつり、熱狂的な支持を集める。そこにはただの憧れではない、共感の要素が多分に含まれており、多くの人が「自分も変われるかもしれない」と勇気をもらった。
「偽ること」への厳しい目があった平成
一方『ヘルタースケルター』では、「ビフォーのリリコ」は最後まで描かれない。それは、“本当の自分”を隠さなければならなかった平成という時代の空気を反映しているとも言える。
整形がメディアで肯定的に語られることは少なく、「偽ること」への厳しい目があった時代。その中で、リリコの美しさは圧倒的であると同時に、“代償”としての孤独や痛みが、強烈に描かれている。
『ヘルタースケルター』の終盤、麻田検事は言う。
「この街はちっちゃなタイガー・リリィーでいっぱいだ。彼女ほどタフなタイガーはいないけどね」
リリコは「タイガー・リリィー」と形容されるが、これは『ピーターパン』に登場するインディアンの酋長の娘のキャラクターと同名であるだけでなく、「鬼百合」、「虎百合」といった「タイガーリリー」と呼ばれる花たちとも重なる。それぞれ、別の種類の花だが虎柄の模様が入っており、「鬼百合」の花言葉には、「誇り」「華麗」「愉快」「嫌悪」など、美という存在に宿る両義性を象徴するような言葉が並ぶ。
そして、「虎百合=チグリジア」の花言葉は「私を愛して、私を助けて」。チグリジアの開花時間はとても短い。美しく咲き誇ったイメージは長く保てず、すぐにしぼんでしまう。短い命なのだから、美しく咲いているうちに見てもらいたいという思いと、怖い虎の顔のようなまだら模様を持つけれど、愛して欲しいといった悲痛な意味合いも込められている。
「タイガー・リリィー」という言葉の中に、リリコという存在に喚起されるような「美」に対する複雑な思いが内包されているように感じる。
「爆美女」に惑わされなくてもいい
令和に入り、SNSの台頭と共に“新たな美の象徴”として生まれた言葉が「爆美女」だ。圧倒的な顔面偏差値、スタイル、生活感のないミステリアスな存在は度々SNSで話題になる。芸能人以外で「爆美女」と称される人は、インフルエンサー的なポジションでもあり、彼女たちが発信するきらびやかな生活ぶりが注目を集めている。
「冴えないビフォー」の片鱗が見えない「爆美女」に対して興味と憧れ、自分と比べて自己肯定感が下がってしまうのも、SNSが発達した令和ならではの複雑さを感じる。私たちは今でも、「美のゴール」がどこかにあると信じ、蜃気楼のような“完璧な美”を追い続けてしまう。
しかし、『女神降臨』の麗奈が支持されるように、もはや美のゴールはひとつではない。天然美人も、努力で得た美しさも、整形も、メイクも、すべては“選べる時代”になり、その努力が称賛される時代になったことを忘れてはならない。
『女神降臨』と『ヘルタースケルター』が教えてくれるのは、時代ごとに“美の基準”や“その捉え方”は変わっていくということ。
平成が「完成された美しさ」を描いた時代だとすれば、令和は「変化し、努力し続ける姿」を美しさとして受け止める時代なのかもしれない。
そして、その変化の過程こそが、誰かにとっての“希望”や“勇気”になる。
美しさの定義は、変わってもいい。変えられるものだと、信じられること自体が、いまの私たちの“強さ”なのかもしれない。