SNSで聖書を面白くわかりやすく伝える活動を続けている上馬キリスト教会ツイッター部のMAROさんは、聖書とは「人間の残念さの歴史」といいます。残念だからこそ救われ、人からも神様からも愛されるのだと。
今から約2000年前に著された聖書に登場する人たちの「残念」な失態エピソードを紹介する『聖書のなかの残念な人たち』(笠間書院)より、格言から見る残念な人について一部抜粋・編集してお届けします。
努力家ほどハマりがち…幸せを遠ざける「やってはいけない」思考パターンとは>よりつづく。
肩書きや身なりで人を判断する人
裁判では人を偏って見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。(『申命記』1章17節)
この戒めを語ったモーセが生きたのは紀元前13世紀頃とされています。今からざっと3300年前です。3300年も前から、裁判についての最も基本的な事項がこうして決められ、記されているんです。まだ「法」という概念自体があいまいで、その体系もなかった頃から、聖書は法の基本について語り続けています。
この記述から、現代の法体系の土台が生まれたとさえ言えるかもしれません。聖書はキリスト教の正典であると同時に歴史書でもあり、現存する最古の法律書でもあるんです。
日本は法によって治められている法治国家です。そして法は身分の高い人にも低い人にもすべて同じように適用されるというのが、民主的法治国家の大原則です。これが破られて、「この人は身分が高いから見逃そう」とか「この人は低い身分だから見せしめに厳罰に処してやろう」なんてことをやってしまったら、法治国家は崩壊します。
しかしそこまでひどくないにしても「この人の証言は身分が高いから信用できる」とか「この人は身分が低いから証言があてにならない」なんてことは、現代の裁判や取り調べでも無意識に行われてしまっているかもしれません。
シンプルなようで実はかなり難しいルールなんです。政治家だから処罰を免れるとか、金持ちだから隠蔽できるとか、そんな話は現代でもよく聞く話です。
この戒めは具体的には裁判のことを語っていますが、ここから得られることは裁判に関することだけではありません。僕たちは裁判官ではなくても、自分の頭の中で日々「小さな裁判」を繰り返しています。
日々の価値判断や善悪の判断も「小さな裁判」
そう考えれば、この戒めは自分たちの日々の生活にも適用すべきものです。つまり、身分の低い人にも高い人にも同じように接し、同じように話を聞きなさいということです。そうすべきことは頭ではわかっていても、実行するのは意外と難しいですよね。
だって、たとえば「スーツを着た紳士」と「ボロボロのジャージを着たホームレス」がいたら、僕たちはつい「スーツを着た紳士」を信用してしまったりします。偉い人には礼を尽くすのに、偉くない人にはぞんざいな態度をとってしまったりします。
裁判官だって人間ですから、人間のそういったイドラ(偏見)から完全に逃れ切るのは至難の業(わざ)です。反対に言えば、詐欺師は人間のそういったイドラを知っているので、立派な格好でターゲットに近づきます。
最終的には「人を身分や肩書きで判断してはいけない」という「おばあちゃんの知恵袋」的な結論に落ち着いてしまいますけど、これは大切なことで、かつ難しいことだからこそ、古今東西のおばあちゃんたちもこれを語り続けるのでしょう。
僕たちが日々行う価値判断や善悪の判断も、一つの「小さな裁判」だと言えます。たくさんある商品の中からどれを選ぶのか、たくさんあるメニューの中から何を食べるのか、たくさんある政党の中からどれを選ぶのか、僕たちは日々さまざまな決断をしながら生きています。
そしてそのときにはつい「テレビで紹介していたから」とか「偉いあの人が言っていたから」とか「セレブ御用達だから」とか、そういった肩書きや権威に判断が影響されてしまうことが多々あります。それそのものではなく、その価値を評価する人によって、価値判断が揺らいでしまうことがあります。そして意図的にそれを揺らがせようとする人もいます。
と言うよりむしろ、人間社会、特に現代の情報社会というのは、人間同士の価値判断の揺らがせ合いによって成立しています。誰もが互いに互いの価値判断に影響を及ぼし合いながら生きています。そうしなければ生きていけません。それは昔からそうではあるのですけれど、現代ではいよいよそれが顕著です。誰もが情報を発信できる時代になったからです。
それが必ずしも悪いわけではありません。たくさんの判断を毎日しなければならない上では、すべての価値をじっくり観察したり吟味したりしている時間はありません。その時間を短縮させるためには、誰かの意見を判断材料にするのも必要なことです。
しかし、そればかりになってはいけません。自分で観察し、自分で吟味するという姿勢を完全に失ってはいけません。「誰が言っているか」だけで物事を判断するのは非常に危険です。「何を言っているか」これをしっかりと観察し吟味することが必要です。
「○○さんが言っているから」と、自分の判断を誰かに丸投げした時点で、僕たちは「身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない」という聖書のこの戒めから外れてしまっているんです。
他のどんな時代よりも情報の多い時代だからこそ、他のどんな時代よりもこのことを心に置いておかなければいけないと思います。
…本記事の前編<努力家ほどハマりがち…幸せを遠ざける「やってはいけない」思考パターンとは>では、「ねばならない」に陥った時に時に役立つ思考法を明かしています。