「Switch2」問題から考える、「転売はなぜ悪いのか」
任天堂は本気の転売対策に乗り出した。
しかし、撲滅には程遠い状況だ。
5日に発売された次世代ゲーム機「Nintendo Switch 2」(以下、Switch2)の販売にあたって、任天堂はアカウントごとの数量制限や抽選販売の厳格化、本人確認の強化など、流通段階で転売を防止する新たな管理手法を導入した。
それでも、発売直後からフリマアプリやオークションサイトには、定価を大きく上回る価格での転売が相次いでいる。
Switch2の定価は税別で3万9980円だが、一時は倍以上の9万円前後で流通する例も確認できた。
そんなSwitch2の転売騒動を象徴するのが、タレント・中川翔子氏をめぐる一件ではないだろうか。
同氏が投稿した動画には、未開封のSwitch2とともに梱包材で丁寧に包装された購入レシートのような紙が映り込んでいた。視聴者は不自然なレシートを根拠に「これは転売品ではないか」と指摘したのである。
今回の騒動は、あくまで疑惑だ。転売ヤーから購入したと確定したわけでもない。そうであるにもかかわらず、SNSでは「転売を助長するな」「正規ルートで買えなかった人の気持ちを考えろ」といった批判が殺到し、大炎上してしまった。
しかし、よくよく考えると仮にそれが「転売品」であったとしても、「マスクの転売」や「音楽チケットの転売」とは異なり、刑事罰を課す法律はないため合法である。
また、最近では「転売」のみならず、「転売品を買う」という行動までも批判対象となりつつある。
なぜ転売の法規制が進まないのか。そして、そもそも「転売」はなぜ悪いのだろうか。
経済的には「合理的」でも、倫理的には?
ゲーム機、ライブチケット、限定スニーカー、アニメのブルーレイボックス。いわゆる転売ヤーのターゲットになる商品には、いくつかの共通点がある。
大まかに分けて、「供給が限られている」「買い手の意欲が強い」「発売直後である」——これらの条件が揃えば、どんな商材でも、定価以上でも欲しいと思う消費者がいる限り、その価格まで値上がりしてしまうのが資本主義の仕組みともいえる。
たしかに、経済学的には需要と価格のギャップを埋めるための裁定取引(アービトラージ)の一種と見なされる面もある。
日本では「マスク」や「チケット」以外の品目について広範に転売を制限することは、憲法上の「財産権」や「営業の自由」を侵害するという懸念もあって政府も立法に慎重な姿勢を崩していない。
しかし、特定の品目が転売禁止になっても、そのほかの品目にターゲットが移るだけで、消費者のフラストレーションは解消されない。
株でも「相場操縦」は違法、海外では「転売の犯罪化」も進む
転売ヤーの論理として「ゲームやチケットも株と同じ」という言い分がある。
しかし、株でも買い占めなどを通じて公正な価格形成を阻害する行為は「相場操縦行為」として犯罪になる。
ゲームやチケットについても、売り手が小売希望価格という価格の目安を公示しているにも関わらず、買い占めなどを通じてその価格以上で取引される環境を作り上げることは相場操縦的な行為であるといえるだろう。
そのような背景もあってか、海外では転売行為の犯罪化が進んでいる。
たとえば英国では音楽だけでなくスポーツチケット等も正規価格以上で再販することが明確に違法とされている。違反には罰金刑が科されるほか、BOTのようなプログラムツールを使った購入行為自体も刑事罰の対象となりうる。
台湾では医療用マスクの転売に対して「最高3年の懲役刑」を規定する法律が2020年に制定された。
オーストラリアの一部州等では、チケットの他にも「公共の利益を損なう重要な商品の転売」を禁じる広い意味で転売を防止する法令が生まれている。
コロナ禍以降、必需品や人の生活に関わるものを転売することが社会的な悪であると見なす動きが加速した結果、その周縁にも違法意識が波及しているとみるべきだろう。
日本では、音楽業界が中心となって積極的に政治・行政への働きかけを行った結果、「チケット不正転売禁止法」が早期に実現した。これを踏まえると、ゲーム機や関連商品の転売をめぐって法整備が進まない背景には、ゲーム業界のロビイング力の不足も一因かもしれない。
たとえば任天堂などが、より積極的に立法への意見提出や制度設計に関与していれば、今回のような大量転売騒動も一定程度は予防できた可能性がある。こうした側面は、今後の業界全体の課題として捉えられるべきだろう。
いずれにせよ、国内外の動向を見ても転売に対する消費者のヘイトは高まる一方だ。いまは見過ごされている品目の転売行為についても、数年後には“ブラック”に塗り替えられている可能性は非常に高いと考えるべきだろう。
「そんな野蛮なことをしていたのか」と言われる前に
歴史を振り返れば、かつて日常的に繰り返されてきた行為が、後に倫理的に断罪される例は数多い。
児童の労働や奴隷制度、いずれも当時は合法で、ある種の「必要悪」として受け入れられていた。
転売もまた、未来の視点から見れば、そうした恥ずべき過去の一つとして扱われる可能性があるのではないか。
「ゲーム機を買い占め、何の愛着もない人が倍の値段で売っていた時代があった」——そんな話を未来の子どもたちに誇らしく語れるだろうか。
買い手の責任感が求められる時代に
「どうしても欲しいから」「定価では買えないから」という理由で転売品に手を伸ばす。そうした一つひとつの消費行動が、構造を温存させ、企業の努力を無に帰す結果となる。
自分一人の行動に意味はないかもしれない。しかし、まさにその自分一人の選択が積み重なった結果が市場原理と化すのである。
あなたは、この商品をどうやって手に入れたのか?
近年の資本主義をめぐっては、手に入れたという「結果」ではなく「過程」が重視される「プロセス経済」の考え方が広がっている。
環境負荷の高い工場で生産された商品や、労働搾取が指摘される業者の製品を買った消費者までもが批判される時代である。
「買うことに対する責任」が求められるからこそ、「転売屋から買う」という行為もまた批判されるのだ。