身近な人の死とどう向き合うか。
多くの人にとって切実なこの問題について、さまざまなヒントをくれるエッセイ『星になっても』(講談社)が発売後から大きな話題になっています。高橋源一郎さんは、ご自身のラジオ「飛ぶ教室」で本書を紹介。「美しいエッセイ」と評しました。
著者は、豊橋技術科学大学准教授の岩内章太郎さん。岩内さんは本書のなかで、お父様を亡くした経緯を振り返りつつ、専門である哲学の知見を生かし、親しみやすい言葉で「死」について語っています。
岩内さんは、父親の死にどのように向き合ったのか。話を聞きました。
「死の扱い」の変化
——この本の中で、哲学者のノルベルト・エリアスの話を引きながら、昔は共同体が「物語」を持っていて、その物語によって「亡くなったら別の世界に行くんだ」「天国に行くんだ」という感じで、みんなで死を乗り越えてきたとされています。それが現代になると雰囲気が変わっているというような話もありました。そのあたりについてもうかがえますか?
岩内:本当に大昔になると、それぞれの民族がそれぞれの宗教や神話を持っていて、その中での手続きで死というものを処理していました。輪廻を信じている地域もあれば、一回死んだら魂が肉体の牢獄から自由になって違う場所に行くというふうな発想している人もいた。あるいは、祖先の霊たちが実在していてその一員になるんだと考えている人たちもいた。
ある共同体でみんな同じ物語を信じているので、その物語に身を委ねれば、ある程度死の不安は軽減される。完全に不安がなくなることはないと思いますが、それでもやはり「死んだらこうなるんだ」ということをみんなで信じていれば、死と孤独が結びつきづらい。
でも、近代に迎えて少しずつ社会のなかで「自由」が重要になってきます。
近代の自由の一番重要なポイントは何かと言うと、「信仰の自由」なんです。ヨーロッパではかつて、信仰の正しさをめぐって宗教戦争が起きました。そこで、近代社会というものを作るときに「信仰の自由」とか「思想・表現の自由」とか「移動の自由」とか、様々な自由を保障する社会にしたんです。
そのときに「死の物語」も、「個人の自由」に引き渡されました。何を信じてもいい、どの宗教を信じてもいい。信じなくてもいい。
そしてもう一方では、自然科学が誕生します。自然科学の合理性というのは、死にかんしてどういうイメージを我々に植え付けるか。肉体は物質と物理的な因果関係の塊なので、死というのはその「壊れ」「分解」「解体」として意識されます。
すると私たちは、死というのは「完全な無」なんじゃないかというイメージを持つんです。それで、「意識が無である」っていう状態を、意識が考えようとして、気持ち悪くなったり、不安になったりするんです。
岩内:もちろん、「無になる」というイメージをもってもいいんですけど、重要なのは、「死んだらどうなるか」については、実際のところ「誰もわからない」ということです。
誰もわからないということは何を帰結するかというと、それぞれの人間が、それぞれ自由に その問題を扱っていいということ。扱うしか道がない、扱わざるを得ないということなんです。
いいかれば、かつてはみんなで扱っていたものが、一人一人が扱うものになったんですね。
そこでは、何か特定の宗教がもっている「大きい物語」を信じてもいいし、あるいは、私は、死んだらいま飼っている猫と一緒に眠るんだというイメージを持っているんですが、それを信じてもいい。
そして、現代社会ではこの二つはほとんど等価になる。なぜ等価かというと、究極的には誰もわからないからです。それぞれが楽になるようなイメージとか物語を、プラクティカル(実用的)にもったほうがいい。もちろん「死んだら無になる」とか「科学的に解体される」とか、そうした発想でいいんだと思う人も尊重されてしかるべきです。
でもときどき、宗教に対する違和感の表明の一つとして「あれは逃げだよね」とか「あれは苦しい人が入るやつですよね」みたいことを耳にしますよね。ところが、「死をどう扱っていくか」を考えるときに、宗教は当然大きな役割を果たしています。死の不安の軽減という意味で宗教は役に立っている。それを、単に「逃げなんですよね」という言い方で片付けていいのか。私はそうは思いません。なるべくプラクティカルに、人の気持ちを楽にすることが必要だと思います。
岩内:人の気持ちにぴったりくる表現ができるのは科学だけじゃない。小説読んで感動したり、映画やアニメを見て自分のことがここで書かれていると思ったり。それとまったく同じですね。
誤解のないように言っておくと、私は「宗教を信じるべき」だとは考えていません。ただ、宗教や物語が持っている力を、人々は自由に信じていいということが、もっと自覚されるべきだと思います。
「小さな形而上学」とはなにか?
——自分にフィットした物語を各々が持つことにもっと自由になろうというイメージですね。本書には、そうした考え方に関連して、「小さな形而上学」という言い方が出てきます。これについても説明していただけますか?
岩内:「小さな形而上学」というのは、私のイメージでは、小さい子が「なんで」とか「不思議」を問うようなことです。
形而上学というのは、哲学的には「この世界全体が何であるか」についての推論、あるいはその根拠を推論する学問を意味しています。
一方で、難しい言葉や難しい理屈、複雑な論理ではないかたちで、そうした問いに答えるやり方もあると思うんです。小さい子が発するようなやり方で。
たとえば私の長男がよく言うのは「初めの人間ってどうやってできたのか」。すっと「なんで」ということを問いにするんです。そして、それについて自分なりに納得のいく答えを探す。そういう素朴だけど根源的な問いと答えのセットを「小さな形而上学」と呼んでいます。
小さい子供って、本当に形而上学者なんですよね。うちの子も、たとえば「地球ってどうやってできたの」という疑問をもって、「小さいクズからできた」という情報が入れば「小さいクズは何かできてるの」とさらに問うたりする。難しい大人の言い方をすれば、「最初の物質」とか「最初の存在とは何か」みたいな話をしているわけです。
岩内:死についても似たような感覚が必要だと思っています。大きなものでなくていいから、死を扱うための「小さな物語」とか「小さな形而上学」みたいなものを持つ。そしてそれを持つことを許し合うことです。
「小さな形而上学」や「小さな物語」は、昔の宗教が持っていたような力はないかもしれない。でも、そのことを許し合うことが大事だと思います。お互いに「持っていいんだよね」と。「持っていたら逃げ」とか「持ってたいら自分は合理的じゃない」とか、そういう思いを持つ必要はないと思います。死についてはむしろ人間の理性では答えが出ないことを意識して、それぞれ自由に物語を持ったり、小さな形而上学を考えたり、そのことを共有したり、許し合ったりする、それがすごく大事です。
——死のイメージが「猫と一緒に眠る」というのは、すごく素敵な「小さな形而上学」ですね。
岩内:猫と一緒に眠るというのもそうですし、あとはたとえば、私は自分が死ぬとき「これで父親のところに行けるんだ」と思うかもしれませんよね。それは物語だと言ってしまえば物語ですが、死については、物語しかないんです。
合理的に考えられるとか、誰もが納得できるとかがいま重視されていますよね。いろんな場所で「エビデンス出せ」なんて言われたりして。
たしかにそれは「ある場合には大事」です。でもそれって、「ある場合には大事」なだけ。生きること全部にエビデンスが必要かというと、そういうわけではない。エビデンスも、科学的な思考もいらない場面も多い。
そうではない場面ではむしろ、美しいものとか、合理的ではないけど美しいもの、あるいは楽しいものとかユーモラスなもの、そういうもので自分の心を楽にしたり、そういうものを通じて人と関わることが大事になってくるのではないかと思います。
エビデンス重視の世界のなかで
——普遍性について考えてきた岩内さんが、個別的なものを大切にしようという展開に至っているのが興味深いです。
岩内:個別的なものを大切にすることは、これまでも考えてはいたけれど、ここまで強く考えるようになるとは思っていませんでした。
哲学はそもそも「神話を乗り越えるゲーム」として出てきました。かつてはいろいろな神話があった。ギリシャ神話があったり、古代エジプトにはエジプトの神話があったり。神話というのは言うまでもなく「神々の物語」です。
そんななかで出てきた、「最初の哲学者」と言われるタレスは、「万物の始原は水である」と言った。その言い方の何がおもしろかったかというと、神の権威に頼らず、人間の言葉で世界の成り立ちを語ったことです。それが哲学の強みです。
哲学の普遍性は、宗教や神話の違いを超えて届けることができる。その延長線上に自然科学がある。だから、物語を再評価するとか、小さな形而上学を再評価するというのは、ある意味で「退行」なんです。哲学的段階から神話的段階に戻っていると見ることもできる。
これは「揺り戻し」ですが、そういう揺り戻しは一定程度必要かもしれません。現代は、テクノロジーとか科学とか合理性の大事さが強調されすぎていて、どこにいても「エビデンス出せ」と言われてしまう。でも、「死」や「死後の世界」についてのエビデンスってあるんでしょうか?
いろんな超常現象の研究もあるから、そういう研究から出てきたエビデンスはあるかもしれません。でも、そもそも発想が違うんじゃないか。実は私たちがいま必要としているのは、死についてのエビデンスというよりは、死についての物語……自分にフィットする等身大の物語ではないでしょうか。
それは、哲学から見たら「神話的な段階」への差し戻しに映るかもしれません。でも実はそれは「深まり」なのではないか。合理性も行くところまで行って、合理性だけでは乗り切れない局面があるということに、ようやく人間が気づいたということだと感じています。
「死ぬ」ということをどう処理するのか。いま、新しい考え方が必要になってるのではないかと思います。
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【もっと読む】「70歳の父親の「死」を経験して…35歳の「哲学者の息子」が「やっておいてよかった」と思ったこと」の記事では、岩内さんがお父さまの死にさいして感じたことを語っています。