現代の価値観から見ると不思議に思えるけれど、実はつい最近まで行われていた近代の風習というものは数多く存在します。例えば、江戸時代まで日本人は羞恥心なく「裸」を人前に晒していました。幕末になって鎖国が解かれ、日本を訪れた欧米人はその様子に大きく驚いたといいます。異端なもの、アウトサイダーなものを深く愛し、執筆活動を続ける杉岡幸徳さんが、日本人の裸体観の変化について紹介します。
裸で外を歩くことを認めろ!
江戸幕府が滅び、明治維新が始まって間もない1873(明治6)年、京都府何鹿郡(現在の綾部市)で、ある奇妙な百姓一揆が起こった。
これには、文明開化の影響を受けて「徴兵制をやめろ」「ちょんまげ姿でも許してほしい」といった様々な要求が掲げられていたが、その中に一つ、不可解な要求があった。それは、「裸で外を歩くことを認めろ」というものだった。
なぜこのような妙な要求が一揆で掲げられたのか。それは、明治維新とともに、政府は日本人が公共の場で裸になることを厳しく禁じ始めたからだ。
以前の記事【かつて銭湯は「男女混浴」が当たり前だった…来日したペリーが目撃していた「衝撃の光景」】では、江戸時代の銭湯は男女混浴が多く、老若男女が区別なく、同じ湯船に浸かっていたことを書いた。三助という客の背中を流す男もいて、女の背中もかまわず流した。それに不平を言うものなど、どこにもいなかった。いや、湯上りに女たちが全裸で通りを歩くほど、裸体が巷に氾濫していたということを記した。
しかし、現代の日本では、その面影もない。銭湯は男女で峻別され、男が女湯に迷い込もうものなら、すぐさま通報されてしまう。中には、銭湯ですら裸になるのが恥ずかしいからと言って、水着を着て湯船に入る者もいる。通りを全裸で歩く者などは皆無で、そんな者がもしいたら、即座にお巡りさんがやってくる。
つまり、日本人の裸体観は、明治維新以前と以後で劇的に変わってしまったのだ。それはなぜか、そしてどのような道行きで変化を遂げたのだろうか。
日本人の「性の奔放さ」に驚愕
幕末になっていわゆる鎖国が解かれ、欧米人が日本に訪れはじめると、一様に驚かれたことがある。それは、日本人のあまりの性に対する奔放さだった。
たとえば、ペリーとともに来日した通訳のウィリアムズは、こう驚愕した。
私が見聞した異教徒諸国の中では、この国が一番みだらかと思われた。体験したところから判断すると、慎しみを知らないといっても過言ではない。婦人たちは胸を隠そうとはしないし、歩くたびに太腿まで覗かせる。男は男で、前をほんの半端なぼろで隠しただけで出歩き、その着装具合を別に気にもとめていない。裸体の姿は男女共に街頭に見られ、世間体などはおかまいなしに、等しく混浴の銭湯へ通っている。みだらな身ぶりとか、春画とか、猥談などは、庶民の下劣な行為や想念の表現としてここでは日常茶飯事であり、胸を悪くするほど度を過している。
(サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ/洞富雄訳『ペリー日本遠征随行記』)
また、イギリスのエルギン伯爵の秘書として来日したオリファンは、こう記している。
半裸の男女が横になり、寝そべっている。またその子供たちがこれも裸で這いまわり、またつきることのない泉(母親の乳のこと)を飲みほうだい飲んでいる。女はほとんど胸を覆わず、男は簡単な腰布をまとっているだけである。(中略)
長崎と同様、この地(下田)でも貧しい階層の人たちは衣装が簡易で、男はほとんど下帯だけ、女はふつう腰から上を露出している。
(ローレンス・オリファント/岡田章雄訳『エルギン卿遣日使節録』)
裸はセクシャルなものではなかった
さらに、英語教師として来日したアメリカ人女性アリス・ベーコンは、こう書き残している。
1888(明治21)年ごろの夏、ベーコンはある海岸に立っていた。すると、海の中から全裸の女性が現れたという。その女はベーコンには頓着せず、全裸のまま砂浜で手ぬぐいで体を拭きはじめた。
すると、そこに女の友人らしき男が現れたのだ。ベーコンは「女はどうするんだろう」と注視していたが、女は特になにもしなかった。そのまま悠然と裸体を拭きながら、男に挨拶したのだ。男はどうしたかと言えば、これも何事もなかったかのように、全裸の女をじろじろ眺めることもなく、平然と世間話をし続けたという。
これらの話から、江戸時代頃の日本人にとっては、裸は別にセクシャルなものでも何でもなかったことがわかる。江戸時代の春画を見れば、登場人物の多くが服を着ている。つまり、全裸じたいは別に珍しくもなかったわけだ。それよりも裸体と着物との対比や、登場人物たちがどのように性の営みをするかが重要だったのだ。
後天的に与えられた「恥」
裸を恥ずかしがるというのは、決して人間の本能ではない。それは、文化的に後天的にねじ込まれたものなのである。
たとえば、アマゾン川流域に住むウィトト族の女性は、ふだんは丸裸で暮らしていた。祭りの日だけ腰巻をつけるのだが、その腰巻には三角形の穴が開いていて、局部をわざわざ露出するようになっていた。つまり、この民族の女性にとっては局部を見せるのは恥ずかしいことではなく、むしろ大っぴらに見せつけるものなのである。
また、インドとミャンマーの国境地帯に住むナガ族の女性は、胸は隠すが性器はむき出しのままで生活していた。今の日本人からしたら理解に苦しむ感覚かもしれないが、ナガ族にとっては、子供の頃からある性器よりも、歳とともに成長する胸のほうがはるかに卑猥であり、恥ずかしいものだったのだ。
明治維新以降に激変
さて、国全体がヌーディストビーチのようなものだった日本が激変するのが、明治維新以降である。
1868(慶應4)年8月、新政府は入り込み湯(混浴)を禁止した。その理由は、「外国人に対して失礼で恥ずかしいから」というものだった。実際、日本に男女混浴の風呂があるという事実は多くの外国人に衝撃を与え、銭湯をのぞきに行ったり、中まで突入したりする外国人が後をたたなかったのだ。
そして、1872(明治5)年、東京府で「違式詿違条例」が施行される。これは、「屋外で裸になること」を禁ずるだけではなく、「春画を売ること」「男女混浴の銭湯を営むこと」「男女相撲や蛇つかいの見世物をすること」「贋物や腐った飲食物を売ること」「巨大な凧をあげて妨害すること」などを禁じるものだった。なんだかよくわからない細々とした項目が入っているのが時代的である。
もっとも、これらの法規ができたところで、一夜のうちに日本人が服を着はじめたわけではなかった。各地で細々としたレジスタンスもあった。
こんな話がある。ある警官がパトロールをしていると、向こうから一人の男がやって来た。しかも、全裸なのだ。警官は男を呼びとめ、「オイコラ、裸で往来を歩くな」ととがめた。ところが、男は平然としてこう言った。
「全裸じゃあありませんぜ。よく見て御覧なさい、体に糸が数本かかってるでしょう? これがワシの着物です」
確かに、裸の上に糸が数本かかっている。これには警官も反論できず、そのまま通すしかなかったという。
変わりゆく価値観
しかし、時とともに新しい法規や倫理観は日本全体に浸透していった。1970年ころまでは、母親が電車の中で堂々と赤ん坊に乳房をふくませていたが、いまは影も形もない。それどころか「授乳ボックス」なる密室が各地に作られ、男が下手にそこに入り込めば逮捕されかねない勢いである。
銭湯の混浴も当然なくなり、子供でも異性の風呂からは追い出されることがある。実はこれについては、世界的に逆転現象が起こっている。ヨーロッパに男女混浴のサウナが広まっているのだ。しかも、タオルなども使わない全裸だ。今では日本人が逆にこれらの混浴サウナに驚き、水着などを着て入って、現地人から奇異な目で見られている状況である。
人間の感覚は、わずかな年月で信じがたいほど変わる。だから、現在の私たちの価値観が絶対的に正しく、未来永劫続くものだとは思わないほうがいいだろう。
・主要参考文献
中野明『裸はいつから恥ずかしくなったか』新潮社
渡辺京二『逝きし世の面影』平凡社
下川耿史『混浴と日本史』筑摩書房