写真史に数多の名作を残し、昨年、この世を去った篠山紀信さん(享年83)。いまだ燦然と輝く作品群が生まれた背景には、常にこの人の存在があった。
40年以上にわたって、写真家・篠山紀信とともに歩みを進めた伝説のプリンティングディレクター・甲州博行さんだ。
一番印象に残った「最高傑作」
初校への執念が、篠山さんとの距離を一気に縮めた。その後は代表作を次々と甲州さんが手がけることになる。
「一番印象に残っているのは『五代目 坂東玉三郎』(篠山さんが37年にわたって撮り続けた、全104演目、450点以上の写真を収録した豪華版写真集)です。横浜から王子神谷の工場に2ヵ月間、毎日詰めていました。私の一歳下の印刷の名人がいたので、少し見たところであとは任せようと思っていたのですが、その名人が『全台、甲州さんが立ち会ってくれなきゃとても怖くて刷れない』と言うんです。それで連日工場通いとなったのもいい思い出ですね。
とにかく篠山さんの原稿(写真)のクオリティが高かった。全体の80%ぐらいは8×10(エイトバイテン)で撮影された大判でした。あの作品は私がいままで携わってきた写真集の中でも自信をもって言える最高傑作です。
篠山さんもそう感じていたようで、相当喜ばれていました。写真集が発売されると、『写真集のデータをちょうだい』って言うんですよ。後日、データを全部お渡ししたら、そこから写真展に繋がった。『凸版のデータが一番いい』と仰ってくれたことを鮮明に覚えています」
自らの哲学を貫いてきた
写真展といえば、東京都写真美術館で行われた篠山さんの60年以上のキャリアを網羅した『新・晴れた日』(2021年5月18日~8月15日)を手掛けたのも甲州さんだ。
「初期の作品から最近のものまで名作をズラッと展示しました。その際、こんなことがありました。篠山さんが突然、『甲州さんね、この写真、昨日撮ってきたみたいにして』って言うんです。数十年前の写真ですよ。腰を抜かしそうになりましたが、篠山さんのためならという気持ちで仕上げました。私なりの力を尽くし、篠山さんにお見せしたところ、一発OKをいただきました」
デザイナーや編集者が入れる赤字についても、甲州さんは自らの哲学を貫き通してきた。
「篠山さんは長い間、長友啓典さんとコンビを組んでいらっしゃいました。長友さんはあまり赤字を入れないんです。ただ、若い人に任せると、一生懸命赤字を入れちゃうんですよね。それはそれでなんとかしますけど……。赤字を入れればいいというものでもないんですよね。ここが難しい。
こんなこともありました。篠山さんの激写文庫の編集長が私に、『甲州さん、赤字がこんなに入ってますけど、いらないものはみんな消しちゃってください!』と言うんです。『編集長がそう言っているんだからよし!』と思って、バンバン赤字を消したんです。それを見た担当の営業がビックリして、『甲州さん、いいんですか、そんな……いいんですか⁉』ってね(笑)。 『編集長がいいって言っているんだからいいでしょ』とね」
篠山さんの最後の頼み
あくまで仕事上のパートナー。しかし、それ以上の深い人間関係で結ばれた40年余。阿吽の呼吸は最後まで続いた。
昨年12月3日、篠山さんの誕生日にホテルオークラで「篠山紀信先生を偲ぶ会」が執り行われたが、そこに飾られた遺影も甲州さんの手によるものだ。
「事務所の方がスマホで撮った写真を遺影にするということで、縦4m×横3mに引き伸ばしました。会場入り口に飾った写真はポラで撮ったもので、こちらは4m×4mにしました。篠山さんの頼みとあれば、やるしかありません」
そう話す甲州さんは最後に、篠山さんの偉大さを改めて語る。
「篠山さんのすごさをもう一つ。通常、カメラマンは写真原稿と校正刷りをじっくりと見比べるんです。自分の写真が忠実に刷られているかを気にするものなんです。
ところが篠山さんは写真原稿はまったく見ない。校正刷りを本の体裁にしたものをパラパラっと捲って、『いいねー。いいよー。オッケー、このままいって』とそれでおしまい。自分の写真が世に届くのではなく、刷ったものが世に届く。だから校正刷りをチェックしていたのだと思います。常に読者であり見る側を意識された写真家でした」
(撮影/吉場正和 取材・文/井上華織)