2004年、30歳で子宮頸がん、35歳のときに子宮体がんであることがわかった女優の原千晶さん。医師の診断は、リンパ節にも転移があるステージⅢC。がんが判明した当初、命にも関わる状況であったといいます。
子宮頸がんを罹患した当初、子宮全摘を医師から勧められたが、将来子どもがほしいという思いが先行して、手術をキャンセルした原さん。医師とは、毎月必ず検査をすることを約束したものの、「異常なしが」が続き次第に病院に通わなくなってしまったといいます。ところが、2009年に体調が急激に悪くなり、医師からは「「子宮を取るだけでは済まないですよ。このまま放っておいたら死にますよ」と告げられたのです。
第2回後編では、前編に引き続き再びがんであることが判明し、結婚を視野にお付き合いをしていた当時の恋人(現在の夫)や家族の方たちとの出来事をお伝えします。
大切な人たちを裏切ってしまった…
――今回は一人で検査結果を聞いたのですね。大丈夫でしたか?
原千晶さん(以下、千晶):病院へは、当時結婚を前提にお付き合いをしていた今の夫が駆けつけてくれていました。まだ家族ではなかったので診察室にはいっしょに入れず、扉の前で待っていてくれました。私は診察室を出るなりボロボロ泣きながら、「また、がんだった。ごめんね、ごめんね」と謝りました。夫は「もういいから」って、黙って受け止めてくれました。
夫とは、お付き合いが始まってから半年後に勇気を出して、「3年前にがんがわかって経過観察中」であること伝えていました。すごく驚いていましたが、とても心配してくれて、病院に通っている気配がない私に、ことあるごとに「病院に行かなくていいの? 大丈夫?」と聞いてきて、そのたび私は、「今はちょっとサボっているけど大丈夫だと思う。出血があったら行く約束になっているから」などと噓をついていました。
彼だけじゃなくもう一人、母も電話で話すたびに通院しているか確認されるので、ごまかしていました……。病気を軽んじていたこと、知識がなくてきっと大丈夫と思っていたこと、心の片隅には怖い気持ちもあったのに、怖いからこそ、蓋をして、本気でたくさん心配してくれていた彼(夫)も母も……、私は大切な人を裏切ってしまったのです。
再びのがんの判明。しかも、悪性度も高く進行もしている……。両親を傷つけることが怖くて、母にはなかなか伝えられませんでした。電話で伝えられたのはそれから一週間後でした。母はしばらく黙ったあと、「年が明けたらすぐ行くから待ってなさい。大丈夫だから」。そう言うとガチャンと電話が切れました。娘を支えると、一瞬で腹を決めたのがわかりました。
結婚を意識し始めた矢先だった
夫とは、30歳のときに子宮頸がんが判明してから3年後にお付き合いを始めました。仕事で出会ったのですが、とてもおとなしい言葉数の少ない人、という印象で、仕事でも話したことはほとんどありませんでした。ところがあるとき、地方の仕事に私が遅刻をして迷惑をかけてしまったことがあって。私が謝りながら夫に話しかけると、ボソボソと答えてくれて……。そんなふうに会話をし始めた瞬間、ブワッと温かいものが私の全身に流れたんです。「何!? この人、すごいいい人!」と、完全に私の一目ぼれでした。
それから何とか連絡先を交換して、お付き合いが始まりました。彼と過ごす時間はとても穏やかで、私はのびのびとした素の自分でいられるんです。お付き合いから2年経った頃、結婚して二人で幸せな家庭を築いていこうという話が進み始めてました。そして、夫のご両親に挨拶に行く日程を決めた矢先に、2度目の子宮がんがわかったんです。
――それは残酷というか。一番幸福なときなのに……。1度目のがんのことを伝えていたとはいえ、急転直下のつらい出来事でしたね。今後のことをどう考えればいいのか、やはり悩んだと思います。
千晶:はい。前回は逃げてしまいましたが、今回は子宮を全摘するので、「私といると子どもが持てなくなるから、別れたほうがいいのでは」「跡取りができないとわかっている私との結婚は難しいんじゃないか」と、彼に何度か伝えました。昔の考え方かもしれませんが、こういった状況になって、彼は長男で実家の名前を継ぐ人ということが、やはりすごく気になってしまって……。
夫はそのたびに、「僕は結婚をやめるとか別れることは考えていないよ。何も変わらないよ」といってくれました。むしろ、「まず何をすべきか、ひとつひとつクリアして行かないといけない。一番は治療をして健康を取り戻すこと。その先のことはまた後で考えたらいいから」と、いっしょに乗り越える覚悟を冷静な態度で示してくれて……。夫の存在は闘病中、なによりも大きな心の支えでした。
いつか人生を振りかえるときに、「生きてきて一番の収穫は何だったか?」と聞かれたら、迷いなく「夫と出会えたこと」と答えるだろうなと思います。
病室で獣のように号泣したあの日
千晶:両親へのご挨拶は、仕事を理由に延期にしてもらい、まずは入院の準備を進めました。1月半ばに広汎子宮全摘術(※1)を受け、子宮、卵巣、卵管とリンパ節も取りました。その後2月に入り、いよいよ抗がん剤のスタートです。1回目の抗がん剤で入院をするタイミングで、夫が「両親にすべてを話してくる」と言って、一人で帰省しました。
これは後から聞いた話ですが、夫は子どもを持てないとわかっている結婚を両親は反対するだろうと思っていたそうです。ところが義父さんは夫の話を冷静に聞き、結婚したいという夫の意志に対して「それはおまえが決めた覚悟なのか」と問われ、「どんなに反対されても自分の気持ちを貫く」と答えたら、「自分が決めたなら、それを貫きなさい。途中でやっぱり嫌になってしまったといって千晶さんを悲しませたり、裏切ることを俺の目の黒いうちにやったら、二度とこの家の敷居を跨がせない」、と言ってくださったそうです。
夫が実家から戻り、病院へ報告に来てくれたのはちょうど日曜日で、6人部屋の病室は見舞客でにぎわっていました。点滴に繋がっている私は、ドキドキしながら「どうだった?」と聞くと、お父さんとの会話を、淡々と話してくれました。
それを聞いた瞬間、私は「うぉーっ」と獣みたいな声で号泣してしまいました。看護師さんがびっくりして飛んできてしまって泣きながら、「すみません、すみません、うれし涙なんです」って。こんなにも抑えられない感情があるのかっていうくらい涙が止まらなかったですね。
5月末に抗がん剤が終わり、まだ脱毛中だったのでウィッグを着けてやっと夫のご両親に挨拶に行くことができました。私を本当の家族として受け入れてくれた義父母には心から感謝していて、今も夫の家族が大好きです。
――これまでさんざんつらく苦しい涙を流してきて……。でも、今度は最高の涙が流せて本当によかった。千晶さんのご両親もさぞかしうれしかったことでしょう。
千晶:私の実家に夫と初めて行ったとき、父がうれしくてハイテンションになる中、夫が「娘さんとの結婚をお許しいただきたくて来ました。どうか許してください」って、普段口数の少ない夫がビシッと言ってくれたんですね。もう母も私も感動してポロポロ泣いてしまいました。
そして、36歳のとき、みんなに祝福されて入籍しました。
広汎子宮全摘術と抗がん剤治療を経て、仕事にも徐々に復帰する一方で、原さんは婦人科がんの患者会『よつばの会』を主宰し、がんの啓発活動に取り組むことになります。
※1:広汎子宮全摘術
がんを完全に取り切るために、準広汎子宮全摘出術よりもさらに子宮を広く切除する方法です。子宮と一緒に、子宮の周りの組織や腟を大きく切除します。また、骨盤内のリンパ節も一緒に切除するリンパ節郭清を行います。がんを完全に取り切ることができる可能性は高くなりますが、リンパ浮腫、排尿のトラブル、性生活への影響などが起こることもあります。卵巣を切除するかどうかは、年齢や組織型、病期なども考慮して決めます。
出典/国立がん研究センターがん情報サービス「子宮体がん(子宮内膜がん) 治療」より