2500年前の古代インドで誕生したブッダ。ブッダはどんな世界を歩き、そして何を見ていたのか。注目の新刊『原始仏教』では、ブッダの描いた「知られざるシナリオ」が解き明かされる。
(本記事は清水俊史『原始仏教』の一部を抜粋・編集しています)
なぜ仏教は「異端」がないのか
戒律や教理の解釈をめぐる対立(十事の非法、大天の五事)を通じて、サンガが「割れる」出来事が繰り返し語られてきたことを見た。しかも部派の伝承は互いに食い違い、どこまでが史実でどこからが後代の物語化なのかも簡単には定まらない。それでも確かなのは、仏教が早い段階から、地域ごと・集団ごとに複数の伝承を抱え込む宗教へと変化していった、ということである。
ここで素朴な疑問が生まれる。宗教の世界では、教えの違いはしばしば「正統」と「異端」を生み、対立や排除を引き起こす。ところが仏教では、見解や伝承が異なっても、相手を「異端」「非仏教」「邪教」などと断じて切り捨てる方向に、必ずしも進まなかった。
なぜ仏教は、分裂しても“異端狩り”にならなかったのか。
一般に宗教は、共同体が大きくなるほど「境界線」を必要とする。何が正しく、何が許されず、どの文書や儀礼が規範になるのかという線引きが、共同体の結束を支えるからである。
重要なのは、宗教的な正しさが、必ずしも聖典の字義だけで決まるわけではない点である。たとえば、ある教えが聖典に明記されていなくても、共同体が「それが正しい」と決めれば正統になる。逆に、聖典に根拠があるように見えても、「ここは字義通りに取らない」と共同体が定めれば、象徴的・譬喩的に読まれ直す(清水俊史[二〇二四])。
つまり宗教において何が真理と見なされるかは、共同体がどのテキストに聖性を認め、さらにそのテキストをどう読むかによって形づくられる。そして、中央集権的な権力がそうした「真理」を制度として確定するとき、「正統」と「異端」が生まれる土台が整う。
この仕組みは、他宗教において分かりやすく表れる。たとえばキリスト教では、公会議を通じて正統教義が定められ、それに反する理解は異端とされた。三位一体説は福音書に明示された教えではないが、ニカイア公会議(三二五年)で正統教義と位置づけられると、これに反する理解は異端として排除されるようになった。また、いかなる文書を正典(カノン:固定的な目録)として採用するかという問題も、正統と異端の境界を画する強力な手段となった。新約聖書の枠組みが現行の二七書に限定されたのは、二世紀から四世紀頃と考えられ、それ以外の典籍に聖性を認めることは、『ユダの福音書』を奉じていたグノーシス派のように、しばしば教会の主流派から異端として斥けられた。
では仏教はどうか。仏教にも当然、教えを守ろうとする力はある。しかし仏教には、それがただちに「中央集権的な線引き」や「排除の制度」へと結びつきにくい条件が、はじめから備わっていたのである。
仏教特有の「多元性」
仏教では、なぜ「異端の排除」が見られないのだろうか。仏滅後、仏教は一八から二〇ほどの部派に分かれ、それぞれが独自の聖典(三蔵)と教理体系を持つようになった。それにもかかわらず、互いを仏教の一員として認め合い、異端として排斥することはなかった。ここでは、このような「異端なき多元性」が成り立った背景を考えてみたい。
まず前提として重要なのは、個々の「出家者」を懲罰する基準が、開祖ブッダ自身の言葉として初期仏典、とりわけ律蔵に詳しく定められていることである。したがって、権威をもつのはブッダが定めた懲罰規定そのものであり、後代の仏教者がその時々の事情に応じて、出家者処分の基準を恣意的に変更することはできない。
そのうえで、注目すべきなのは、初期仏典には、異端を理由として「出家者」を破門する制度が見られないことである。出家修行者が破門、すなわち僧籍を失うのは、四波羅夷(淫事を行う・盗む・殺す・悟ったと嘘をつく)を犯した場合に限られる。本人の意思に反して、それ以外の理由で還俗を強制されることはない。後代の歴史書には、王権によって問題のある出家者が還俗させられた話も見えるが、その場合でさえ、還俗後の地位を用意して本人を納得させる形がとられている(『小王統史』七三章一四―一七偈、七八章一八―二六偈)。
次に、「サンガ」という共同体の水準を見てみよう。初期仏典、特に律蔵が直接に想定している出家共同体は、「サンガ」と呼ばれる地域単位の集団である(直径およそ二一キロメートルを限界とする共同体と定義される)。ブッダ在世時から、地方ごとにそれぞれのサンガが存在していたと考えられる。そして律蔵を厳密に読む限り、あるサンガが別のサンガを異端として排除する規定は存在しない(Huxley[一九九六])。
律蔵が重んじるのは、各サンガの内部における和合である。出家者たちがサンガの共同行事にそろって参加し、共同体としてまとまっていることが理想とされ、その和合の破られることが強く戒められる。もっとも、一つのサンガの内部で深刻な対立が起こることはありうる。その場合についても、律蔵のなかでブッダは対処法を示している。もし対立が和合を保てないほど深まったなら、サンガを二つに分け、それぞれ別個に運営すればよいというのである(律蔵「大品」、李慈郎[二〇〇〇])。
ここで重要なのは、各サンガには自治権が認められており、他のサンガの決定に従う義務がないことである(平川彰「著作集」一二巻)。よって、意見の違いからサンガが分かれたとしても、それが律蔵の規則に従った合法的な分立である限り、互いを仏教共同体として認めざるをえなかった。少なくとも、相手を異端として仏教の外側に追放する仕組みは、ここには見られない。
「部派」とは何か
ただし、初期仏典においてデーヴァダッタの分派活動(第8章4節を参照)がとりわけ重大な悪業とされるのは、それが律蔵の定める正規の手続きを踏んだ分立ではなく、故意にサンガの和合を破壊し、ブッダに取って代わろうとした行為として描かれているからである。そして、この場合でさえ、デーヴァダッタは仏教の外に排除された異端者として描かれていない。
最後に、「部派」の水準である。初期仏典には、そもそも「部派」の概念自体が現れない。加えて、複数のサンガを統括する上位組織についての規定もない。つまり、現代日本仏教に見られるような、本山と末寺の関係や、複数の共同体を束ねる中央集権的な制度は、少なくとも初期仏典の段階では前提とされていない(森章司[二〇〇七])。だからこそ、後代に部派が成立したとしても、ある一つの中心権力が他の集団を異端として排除する構造は生まれなかった。仏教の歴史伝承によれば、根本分裂が起こり、部派が成立するのは、仏滅後一〇〇年ないし二〇〇年を経てからである。したがって、初期仏典の段階では、ある部派が別の部派を異端として排除するという発想自体が、まだ成り立っていないのである。
以上のように、たとえ見解が異なり、聖典として重んじるテキストが違っていたとしても、それだけを理由に他の修行者や他のサンガを異端として排除することは、規則上認められない。そしてこの規則は、ブッダの金口直説として不可逆的な権威を有していた。この構造が、後の時代における多様な部派の共存という、仏教独特の多元的な秩序へとつながっていくのである。