信徒数5億人を誇る世界宗教、その初期仏典には驚きの「仕掛け」が隠されていた––。注目の新刊『原始仏教』では、ブッダの描いた「知られざるシナリオ」が解き明かされる。
(本記事は清水俊史『原始仏教』の一部を抜粋・編集しています)
輪廻を断ち切るには
輪廻が続く限り、生・老・病・死という苦しみの連鎖を終わらせることはできない。古代インドの宗教家たちは、この苦難をいかにして克服するかを模索し続けていた。シッダッタもまた、その解決の道を求めて二九歳で出家した。以後六年に及ぶ修行のなかで、彼は瞑想や苦行といった当時の諸派の教えを実践したが、そのいずれもが輪廻の根絶には至らず、真の意味で生・老・病・死の苦しみを終息させるものではないと看破したのである。
そこでシッダッタは断食の苦行をやめ、托鉢で得た食によって体力を回復すると、セーナー村(現在のブッダガヤ)のネーランジャラー河のほとりを訪れ、ここは修行にふさわしい場所であると知る。
托鉢修行者たちよ、そのように私は、何が善であるかを求め、無上の寂静なる勝れた境地(涅槃)を探し求めて、マガダ国を順に遊行し、ウルヴェーラーのセーナー村にたどり着きました。そこで私は、麗しい土地があり、清々しい叢林があり、よい渡し場を備えた清流の美しい川があり、また周囲には托鉢〔に適した〕村があるのを見ました。托鉢修行者たちよ、この私に次のような思いが生じました。
──ああ、なんと麗しい土地であろうか。清々しい叢林があり、よい渡し場を備えた清流の美しい川があり、また周囲には托鉢〔に適した〕村がある。まさしくここは、修行を求める良家の息子が、修行をするのにふさわしい場所である、と。托鉢修行者たちよ、そこで私は、「ここは、修行をするのにふさわしい場所だ」と、その場に坐りました。 (『中部』二六経「聖求経」)
そしてシッダッタは、菩提樹下で結跏趺坐し、瞑想を深め、現象世界のあり方を見極めて悟りを開き、「ブッダ」となった。生・老・病・死の苦を厭って出家した彼は、ついに解脱し、不生・不老・不病・不死の涅槃に到達したのである。時に三五歳であった。
托鉢修行者たちよ、こうして私は、自らが生まれるもの〔・老いるもの・病むもの・死ぬもの〕でありながら、生まれること〔・老いること・病むこと・死ぬこと〕のうちにある過患を見極めて、不生〔・不老・不病・不死〕の、無上の、安穏の涅槃に到達しました。……さらに、私に〔次の〕知見が生じました。──私の解脱は不動である。これが最後の生である。もはや再生することはない、と。 (『中部』二六経「聖求経」)
二九歳で出家し、六年にわたる修行の末にブッダは悟りを完成させた。ところで、菩提樹下でブッダは何を悟ったのであろうか。この問いは、仏教学において古くから議論されてきた主題である。これまで「四聖諦」あるいは「縁起(えん ぎ)」といった教説がその核心として提示されてきた。確かに初期仏典を紐解けば、四聖諦や縁起をブッダの悟りと直接結びつける記述は数多く存在する(『相応部』一二章四―九経、同五六章一一経、『ウダーナ』一章一―三経、律蔵「大品」)。
悟りとはリアリティへの到達
しかし、この問いの立て方自体、仏教的文脈から逸脱する危うさを孕んでいる。確かにブッダは、瞑想を通じて現象世界を観察し、その真実の姿(ありのまま)を認識するに至った。だが、「悟り」とは、現象世界について正しい「知識」を得ることではない。それは、輪廻の根源である煩悩を断つと同時に、万物を見通す「知恵」そのものである。
ここでいう知恵とは、単なる情報の集積ではなく、現象を正しく認識する「能力」の体現を指す。この能力を体得することで、あらゆる疑惑や執著は霧消し、目覚めた者(ブッダ)となるのである。よって、悟りとは情報の蓄積とは根本的に次元を異にする。
確かに、縁起や四聖諦は仏教の根幹であり、悟りを象徴する教説である。だが、これらはあくまで悟りの「内容」や「結論」を言語化したものにすぎず、縁起や四聖諦に関する知識をもつこと自体が「悟り」なのではない。
実際、この懸念を端的に示す対話が初期仏典に残されている。博識で知られる仏弟子ナーラダは、十二支縁起の順観・逆観を正しく理解していたが、それだけで悟りを完成させていたわけではなかった。
【サヴィッタ】「それでは、尊者ナーラダは阿羅漢(悟りを完成させた者)であり、漏尽者(煩悩を滅ぼし尽くした者)なのですか」
【ナーラダ】「友よ、「〔縁起の支分の一つ〕生存(有)の滅尽こそが涅槃である」と、私によって正しい知恵をもって、ありのままによく見られていますが、かといって私が阿羅漢であり、漏尽者であるというわけではありません。
友よ、たとえば荒野の道に井戸があったとしましょう。そこには縄もなく、水桶もありません。そこに、暑さに焼かれ、暑さに苦しみ、疲れ、乾き、喉の渇いた男がやって来て、その井戸を覗き込んだとします。彼には「水がある」という知識は確かにありますが、それに身をもって触れて住することはできません。
友よ、まったく同じように、「生存(有)の滅尽こそが涅槃である」と、正しい知恵をもって、ありのままによく見られていますが、私は阿羅漢でも、漏尽者でもありません」(『相応部』一二章六八経)
ここで「井戸の水」の譬喩が示しているのは明快である。井戸に水があると知っていても、その水を実際に飲んで渇きを癒やせなければ意味はない。同様に、「AがあればBがある」「AがなければBもない」という縁起の法則を知識として持つだけでは、悟りの知恵は生じず、輪廻の苦しみを終わらせることもできない。
したがって、縁起や四聖諦が「正しい世界のあり方」であり、ブッダがそれを覚知したことは間違いないが、「ブッダの悟り=縁起という理論の把握」と言い切ってしまうと、初期仏典の文脈とは乖離が生じる。悟りとは理論の帰結ではなく、理論が指し示すリアリティへの到達だからである。