信徒数5億人を誇る世界宗教、その初期仏典には驚きの「仕掛け」が隠されていた––。注目の新刊『原始仏教』では、ブッダの描いた「知られざるシナリオ」が解き明かされる。
(本記事は清水俊史『原始仏教』の一部を抜粋・編集しています)
「目覚めた人」ブッダ
仏教は「ブッダ」と呼ばれた一人の男を開祖とする教えである。ブッダとは「目覚めた人」を意味する称号であり、その本名は、パーリ語で姓をゴータマ、名をシッダッタという。サンスクリット語で呼ぶなら、ガウタマ・シッダールタとなる。初期仏典のなかでブッダは、「尊き方」を意味する「世尊」や、「真実に達した者」を意味する「如来」とも呼ばれる。また、菩提樹の下で悟りを得る前の修行段階では、「菩薩」と呼ばれる。
このゴータマ・シッダッタは、現在のインド・ネパール国境付近にあったシャカ族の国都カピラヴァットゥ近郊のルンビニー園で生まれ、同国の王子として育った。父はスッドーダナ王(浄飯王)、母はマーヤー(摩耶夫人)である(『長部』一四経「大譬喩経」、『長老偈』五三四偈)。
シャカ族は、ヴァルナ(四姓制度)においては武士階級に属し、コーサラ国の傘下にありながらも、自治権を有していた。伝承によれば、その起源はインドの伝説的な聖王オッカーカ(甘蔗王)にさかのぼり、さらには太陽神の末裔(日種)であるという高貴な出自を誇っていた(『長部』三経「アンバッタ経」)。このシャカ族の系譜や、ブッダの身体的特徴とされる三十二相の一つ「真青眼相」(碧眼)の記述などから、彼らがアーリア系であったとする説もある。しかし、近現代の研究の多くは言語的・地理的・文化的背景からシャカ族の非アーリア的側面・混淆性を指摘する傾向が強い(Levman[二〇二一])。またブッダの呼び名の一つである「釈尊」は、シャカ族(釈迦族)の聖者という意味である。
歴史学的に見たブッダの生没年代は、資料が乏しいため正確には確定できないが、おおよそ紀元前五世紀前後に活動した人物であると考えられる。
さて、ブッダとなるべき偉大な人物は、その誕生からして特別である。前世には兜率天という天界に住し、そこから母の胎内へ下生したとされる。さらに、国都カピラヴァットゥ近くのルンビニー園で、シッダッタは母マーヤーの右脇腹から生まれると、ただちに七歩あゆみ、誕生偈を唱えたと伝えられる。これは今日、「天上天下唯我独尊」としてよく知られる誕生偈であり、初期仏典には次のようにその経緯が残されている。
托鉢修行者らよ、次の法則があります。菩薩は生まれるやいなや、平たい両足で立ち上がり、北に向かって交互に七歩あゆみ、白い傘蓋が差し掛けられると、すべての方角を眺め、最上の言葉を語ります。
「私は世界で最上者である。
私は世界で最尊者である。
私は世界で最勝者である。
これは最後の生まれである。
もはや再生はない」と。 (『長部』一四経「大譬喩経」、『中部』一二三経「稀有未曾有経」)
大地が震動した
誕生偈を唱え終えると、空中からは冷水と熱水が注ぎ、無量の光が世界中に広がり、大地が震動したという。このような瑞兆が起こる一方、母マーヤーは、産後の肥立ちが悪く、出産後七日目に亡くなった。
母の死に前後して、シッダッタの誕生を祝うために、ヒマラヤからアシタという名の仙人がスッドーダナ王のもとを訪れた。この仙人が赤子のシッダッタを抱き上げ、突然涙を流したというエピソードは有名である。その涙は、王子の不吉な未来を予期したものなのか。周囲が動揺するなか、仙人が語った真意は、初期仏典において、次のように格調高く残されている。
そこで、〔シッダッタ王子を抱き上げたアシタ仙人は〕自身の死期を思い起こして、顔色を曇らせて涙をこぼした。〔それを〕見て、シャカ族の者たちは、泣いている仙人に尋ねた。「王子に、何か危難が起こるのでしょうか」と。(六九一)
心配するシャカ族の人々を見て、仙人は言った。「私は王子に不利益があると思い浮かべているのではありません。また、彼に危難が起こることもないでしょう。この子は並みの者ではない。〔あなた方は〕大いに安心しなさい。(六九二)
この王子は、最高の悟りに達するでしょう。この方は、最上の清らかさを見る者となり、多くの人々の利益のために憐れみをもって、法輪(教えの輪)を回すでしょう。この方の清浄行(清らかな教えの実践)は広まるでしょう。(六九三)
ですが、この世での私の余命は幾ばくもなく、〔シッダッタ王子が悟りを開く〕その途中で、私には死が訪れるでしょう。〔それゆえ、〕私はこの比類なき先導者の教えを聞くことができません。それゆえ、私は悩み、不幸に陥り、痛苦に苛まれているのです」〔と〕。(六九四)
(『スッタニパータ』六九一―六九四偈)
苦を厭い、善を求めて出家した
誕生から出家に至るまでの青年期の情報は極端に少ない。ブッダ自身が回顧するところによれば、出家前のシッダッタは不自由のない裕福な生活をしており、贅沢品に囲まれていたという(『増支部』三集三八経)。また、シッダッタは幼いころから瞑想修行の資質に長けており、父スッドーダナ王が政務をする傍ら、木陰で瞑想に入っていたという。次のように回顧する。
アッギヴェッサナよ、この私に次のような思いが生じました。──私は確かに知っている。シャカ族の父が仕事をしているあいだ、私は涼しいジャンブ樹の木陰に坐り、諸々の欲から離れ、また不善なる諸法から離れて、大まかな考察と細やかな考察のある、遠離から生じた喜と楽のある、初禅に入って過ごしたことがある、と。
(『中部』三六経「大サッチャカ経」)
シッダッタは一六歳のときに妃ヤソーダラーを迎え、息子ラーフラが生まれたことはよく知られるが、これは後代に編纂された仏伝文学に基づく情報である(『ジャータカ注』序)。初期仏典では、結婚の詳細について語られておらず、妃の名前も実際には不明である。ただ、息子ラーフラの名前は初期仏典に現れるため、シッダッタが出家前に結婚し、妃とのあいだに息子ラーフラが生まれていたとみてよい。
そんな恵まれた生活を送っていたシッダッタが出家を決意した理由として「四門出遊」の逸話が知られる。すなわち、居城から遊園に出かけるため、城の四方の門から出る際、東門では老人を見て、南門では病人を見て、西門では死人を見て、最後に北門では沙門を見たという。シッダッタはこの出来事をきっかけに老病死の人生苦を観じて、出家を決意したのだという。ただし、この「四門出遊」の逸話は、初期仏典には確認されない。
初期仏典における出家の動機は、裕福な生活を送りながらも生・老・病・死の苦しみからは逃れられないと知り、これらの苦しみから離れた涅槃の境地を獲得することにあったと語られる。
私はむしろ、自らが生まれるもの〔・老いるもの・病むもの・死ぬもの〕でありながら、生まれること〔・老いること・病むこと・死ぬこと〕のうちにある過患を見極めて、不生〔・不老・不病・不死〕の、無上の、安穏の涅槃を求めてはどうであろうか。……
托鉢修行者たちよ、その後、私はまだ若く、髪は漆黒であり、幸いなる青春を享け、人生の第一期(青年期)にありながら、母と父が〔私の出家を〕望まず、涙で顔を濡らして泣いているにもかかわらず、髪と髭を剃り落とし、袈裟を身にまとい、家を捨て、出家したのです。 (『中部』二六経「聖求(しょ うぐ)経」、『増支部』三集三八経)
また、晩年にブッダは、若い頃を回顧して、二九歳のときに「善」を求めて出家したと述べている。ここでの「善」とは、世俗道徳としての善ではなく、すべての苦しみを究極的に終わらせるという宗教的な善を意味する(この他に『中部』二六経「聖求経」)。
スバッダよ、私は二九の齢にて、何が善であるかを求め、出家した。
スバッダよ、私が出家して、五〇年余が過ぎ去った。
正理の法の領域に励んできた。これを除いて、〔真の〕沙門は存在しない。
(『長部』一六経「大般涅槃経」)
このように、苦を厭い、善を求めて出家したというブッダの回顧は、一つの求道心の表裏である。ここで厭われているのは、生・老・病・死に象徴される生存の不安定さであり、求められている善とは、その不安定さを根底から超える無上の安穏である。ゆえに出家は、単なる悲観や逃避ではない。苦の現実を直視しつつ、その終極へ向かう道を自らの生において徹底的に探究しようとする決断であった。