明治から令和まで、劇界を動かしてきた十大名家の興亡史をひもとく注目の新刊、『増補新版 歌舞伎 家と血と藝』。旧版刊行から13年、歌舞伎ファン必携の名著が最新の動向まで盛り込んで完全リニューアル!(おどろきの200ページ増!) 当代の役者たちが背負っている歴史がすべてわかる、ありそうでなかった決定版。
(本記事は、中川右介『増補新版 歌舞伎 家と血と藝』の一部を抜粋・編集しています)
第一部 劇聖とその後継者たち──明治から大正
第一部では明治から大正にかけて、歌舞伎座の歴史でいうと、初代(明治二十二~四十四年)と二代目(明治四十四~大正十年)を描く。
登場するのは四つの家で、まずは、市川團十郎家。歌舞伎役者の代名詞といっても過言ではない「團十郎」の歴史は、そのまま江戸歌舞伎の歴史である。三百六十年にわたるその歴史を述べ、歌舞伎における血と家と名、そして藝の継承がどのようになされていったかを見ていくが、第一部では初代から九代目の死までを描く。
九代目團十郎とともに並び称された明治の名優が五代目尾上菊五郎である。菊五郎家が劇界の中心に位置するようになるのは、この五代目からだ。複雑な家庭で、いくつかの悲劇が生まれる。第一部では五代目の活躍とその死の直後までが描かれる。
「團菊」後に劇界の頂点に立ったのが、五代目中村歌右衛門である。成駒屋こと歌右衛門家は幕末から東と西とに分裂していた。五代目歌右衛門襲名をめぐって、東西の対立は頂点に達し、東京の芝翫と大阪の鴈治郎の間で、劇界最大の跡目争いが展開された。どのようにして東京の成駒屋がこの名跡を手に入れたのかを描く。
第四の家として登場するのが、関西に拠点を置いていた片岡仁左衛門家である。十一代目は明治後半から昭和初期にかけて東京の歌舞伎座で活躍し、五代目歌右衛門の襲名問題でも重要な役割を果たす。十一代目とその息子の十三代目は名優として知られるが、十代目・十二代目は悲劇に見舞われる。この兄弟・従兄弟間での明暗が描かれる。
第一部の最後には、「家」というよりも、ひとりの名優の逸話として、十五代目市村羽左衛門について述べる。歌右衛門、仁左衛門と共に「三衛門」と呼ばれた明治後半から昭和初期にかけての名優である。尾上菊五郎家とも深い関係にあり、現在の歌舞伎座にはこの名の役者はいないが、忘れてはならない大名跡だ。また、その親戚である坂東彦三郎家についても記す。
第一話 歌舞伎史との並走──市川團十郎家 その一
歌舞伎界には数多くの家があるが、「宗家」と呼ばれるのは、市川宗家、すなわち市川團十郎家のみである。
徳川時代、代々の團十郎は「芝居の氏神」と呼ばれた。江戸にあった三座(中村座、市村座、森田座)の座頭はベテランの役者しか就けないが、「團十郎」のみ、例外的に若くても座頭となれた。幕末に生まれ明治に活躍した九代目團十郎は「劇聖」とまで称えられた。そして戦後に活躍した十一代目は「海老様」として絶大な人気を得た。團十郎のみが、役者のなかで別格なのだ。
歌舞伎は、舞台上のドラマもさることながら、役者そのものを観に行く演劇である。弁慶を演じている團十郎に向かって「成田屋」と声をかけるのは、考えてみると、おかしい。演劇とは多くの約束事で成り立ち、弁慶の物語を上演しているのであれば、舞台にいる者は弁慶だという前提で観るのが普通だ。だが、歌舞伎においては、舞台にいるのは「團十郎の弁慶」というのが前提となる。弁慶であるのと同時に團十郎でもなければならない。これはどの役者においてもそうなのだが、市川團十郎の場合、とくに、團十郎であることが求められる。
それが、この家=市川團十郎の宿命なのだ。
明治以降の歌舞伎史の「前史」として、この家の初代からの歴史を通して、歌舞伎における「藝」と「名」と「家」とがどのように生まれてきたかをみていきたい。
役者を超えた存在
「市川宗家」とは狭義には、「市川一門の長」という意味だが、広義には「劇界全体の長」という意味でもある。
普段の興行においては、團十郎は何人もの幹部役者のひとりとして主役を演じているだけなので、そうしたポジションは見えにくかったが、この家の襲名披露興行や冠婚葬祭の際には、「市川宗家」が特別であることが顕になる。十二代目の告別式も、元首相が弔辞を読み別の元首相からの弔電が披露され、松竹の会長が葬儀委員長を務めるなど、他の役者の葬儀とは異なる雰囲気があった。令和四年(二〇二二)の十三代目襲名の際も、「市川宗家」と強調された。
なぜ市川宗家は特別なのだろう。単に、長く続いている家だからなのだろうか。
代数だけならもっと多い家がある──中村勘三郎が十八代、市村羽左衛門が十七代、守田勘彌も十四代と続いている。しかし、この三家は座元であり役者専業ではなかった。上方(関西)の片岡仁左衛門家は当代が十五代目だが、六代目以前はよく分からない。市川家は役者専業の家としては最も長い約三百六十年の歴史を持っている。
代々の團十郎のなかには二十代で若くして死んだ者もいれば、その名では一度も舞台に立たなかった者もいるので、十二人すべてが名優として大きな業績を遺したわけではないが、代々の團十郎は常に江戸の芝居世界の中心にして頂点に位置していた。
武家や商家の場合、当主は象徴的な存在で家老や番頭に才覚があればよいが、役者の場合、当人が舞台に立って演じることでのみ評価される。単に「市川家の当主」というだけでは、人々は金を払って見物には行かない。代々の團十郎が役者としての魅力に満ち溢れていたから、この家は続いたのだ。
それも、ただの「人気役者」ではない。代々の團十郎は江戸歌舞伎の象徴というべき「荒事」を創始し、それを発展させ、かつ守りぬいた点で、役者を超えた存在となっていった。代を重ねるにつれて自分の門弟だけではなく、江戸歌舞伎界全体のまとめ役にもなっていったのである。
市川團十郎家のルーツ
市川宗家は十三代まで続いている。
初代團十郎の生年は、約三百六十年前、萬治三年(一六六〇)が一応の定説となっている。本名、堀越海老蔵という。父・堀越重蔵は江戸の俠客のひとりだった。堀越家のルーツについては、出身地は諸説あるが、武士だったという点では一致している。
徳川時代、役者は武士ではないので公式には苗字を名乗れなかったが、代々の團十郎には、自分は「堀越」だという意識はあったようだ。明治維新となり役者も苗字を持てるようになると、九代目團十郎は自分の姓を「堀越」として届け出て、それが現在まで続いている。十三代目の本名は堀越寶世だ。
初代が生まれた時点で堀越家は芝居の世界には属していなかったが、父が俠客なのでその近くにはいた。詳しい経緯は分からず、また幼少時から初舞台を経て人気俳優となるまでの経緯については諸説あるのだが、市川家公認の史書によると、初舞台は十四歳になる延宝元年(一六七三)で、中村座であった。この時点では市川海老蔵と名乗った。海老蔵は本名だが、なぜ姓が「市川」なのか。堀越家の出身地が奥州の市川だからだとの説があるが、はっきりしない。市川團十郎と名乗る(最初は「段十郎」)のは二年後の延宝三年(一六七五)のことである。
この時期、歌舞伎の歴史はまだ始まったばかりだ。舞踊に始まり、寸劇のようなものに発展していたが、まだ今日のような本格的な演劇にはなっていない。
上方で近松門左衛門が人形浄瑠璃を本格的なドラマに変革したのが一六八〇年代で、近松は歌舞伎にも転じ、坂田藤十郎と組んで、「和事」と呼ばれる人情劇を確立する。時を同じくして江戸では、市川團十郎によって「荒事」が始まる。
通説では、初舞台で團十郎は『四天王稚立』の坂田公時を演じ、一気に人気が出た。この時、團十郎は顔の筋肉を誇張した隈取という独特の化粧法と、奇抜な衣装で舞台狭しと暴れまわった。江戸の芝居にはすでに、荒々しい武者が立ち回りをする「荒武者事」と呼ばれるものがあったので、それと融合させ、英雄豪傑が暴れまわる、荒唐無稽と言えばそれまでだが、爽快な活劇となった。これが、「荒事」と名付けられ、「市川團十郎の家の藝」となる。
團十郎の登場とブレイクは、ひとりの少年役者がデビューして人気者になったというだけでなく、演劇史においてひとつのジャンルが確立されたことも意味している。
はたして、この「荒事」は、十四歳の初代團十郎が自分で考えたのであろうか。仮に、この少年が思いついたとして、周りの大人たちが、そんな突拍子もないことを認めたのだろうか。別にプロデューサーとシナリオライター、そして演出家がいて、この少年役者を新しいヒーローに抜擢したと考えるほうが現実味はありそうなのだが、その背景はよく分からない。
というわけで、延宝元年(一六七三)の『四天王稚立』が荒事の創始であったとする説には疑問も残るが、「荒事」がこの時代に始まり、それに大きく貢献したのが初代團十郎であったことは間違いない。
一人のスターによって江戸歌舞伎は新しい歴史を歩み始めたのである。
ひとりの天才が現れ、人気スターになっただけならば、その人が死ねばその藝も消え、伝説は残るかもしれないが、実態は消えてしまう。だが、「市川團十郎」はそうではなかった。初代が死んでもその藝が息子へと引き継がれたのである。逆に言うと、それまでの歌舞伎には「家の藝」はなかった。ただ人気役者がいただけだ。
「個人の藝」から「家の藝」への飛躍は、二代目によってなされた。なぜ、二代目團十郎はそれが可能だったのか。
この飛躍は、初代團十郎が周到に計画し用意していたところに、偶発的な事件が起きたからこそ、可能だった。どちらが欠けても、こうはならなかったであろう。
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