日本は「東西」で語れるのか、「中部地方」は存在するのか、何が「裏日本」をつくったのか……私たちは〈この国のかたち〉を全然知らなかった!?
話題の新刊『新しい日本地理――地図・統計・移動から読み解く』では、気鋭の研究者が大量の統計地図を用いて、日本列島を大胆に問いなおしている。
(本記事は、重永瞬『新しい日本地理』の一部を抜粋・編集しています)
東京志向化する九州
人口移動の要因として、就職は最も大きな割合を占めている。現在では大学卒業後に就職する人が多いが、1965年から1997年までは高卒での就職が最も多かった。図1-11より、高等学校卒業者の就職先の変化を見てみよう。
1980年には、福井県から三重県にかけての「三関」のラインを境に、東日本では東京都、西日本では大阪府への就職者が多かった。例外は福岡県と沖縄県だけで、全体としては明確な東西対立構造が存在していた。
しかし、1990年になると、九州のすべての県で東京都への就職者が多くなり、広島県や山口県でも東京のほうが多くなった。東京と大阪という日本の二極構造は、東京を中心とした一極構造へと変化しつつある。とりわけ九州の変化は大きい。1980年代には、「九州の東京志向化」が進んだと言えるだろう。
戦後の日本においては、大都市圏に人口が移動した時期が3度あった(図1-12)。①1950年代~1970年代初頭の高度経済成長期、②1980年代のバブル期、③1990年代後半からリーマンショックまでのITバブル期である。
このうち、高度成長期には東京圏だけでなく大阪圏にも人口が移動したが、その後の二度の大移動では東京圏にばかり人口が集まり、大阪圏の人口はむしろ減少の一途をたどった。高度成長期以降には、地方圏の人口が大阪や名古屋を飛び越えて直接東京に動く傾向が強まったと言えるだろう。図1-11で見たように、九州はその典型的な例である。
地方圏が東京との結びつきを強めた理由はいくつか考えられるが、その一つに交通事情の変化が挙げられる。
1970年には約1500万人だった国内航空旅客輸送量は、2000年には約9300万人と、30年で6倍以上増加した。その半数以上は、首都圏の空港が占めている。反対に、関西の航空旅客輸送はほとんど伸びていない。航空輸送は、もっぱら各地方と首都圏を結ぶかたちで発達してきた。
図1-13は、日本の各空港について、羽田空港と大阪国際空港のうち流動が多いほうに線を引いたものである。1970年には大阪が中四国のみならず九州に対してもハブの役割を果たしていたが、1987年には、完全に東京に中心が移ったことが分かる。
また、新幹線の発達も大きい。1964年には東海道新幹線が全線開通し、1975年には山陽新幹線が博多駅まで全通した。山陽新幹線の時間短縮効果は特に大きく、それまで大阪駅―博多駅間は特急「はと1号」で8時間26分かかっていたが、「ひかり」0系によって3時間44分で行けるようになった。東海道新幹線も併用すれば半日で博多から東京まで行くことができ、九州と東京の距離がグッと縮まった。「九州の東京志向化」は、このような交通事情の変化によってもたらされたのである。
もちろん、理由はそれだけではない。1960年代から1970年代にかけて、エネルギー革命によって燃料の主流が石炭から石油へと移り、九州北部の炭鉱は次々と閉山していった。大阪においても、湾岸部を中心に重工業の停滞が明らかとなった。
これとは反対に、メディアやITのような新しい産業は、首都であり情報が集まる東京に集中していった。このように人口を押し出すプッシュ要因と引きつけるプル要因が重なり、バブル期以降の人口移動は東京一極集中の様相を呈するようになった。
さらに、「多くの人が知らない「都道府県ランキング」が隠すもの…地図から問いなおす「日本の姿」」では、「都道府県魅力度ランキング」が抱えている問題、さらには都道府県や地方ブロックからは見えていないことを掘り下げていく。