2003年、20勝を挙げた井川慶の卓抜した働きによって優勝を手にした阪神。井川の担当スカウトだった菊地敏幸氏は、同年オフのドラフトでは翌々シーズンのリーグ制覇にも貢献し、以降、不動のショートとして君臨することになる早稲田大学の鳥谷敬の獲得に成功する。その決め手となったのは、尊敬する先輩、3人のキーマン、ライバル球団の失態だった。
誰がどう見ても間違いない逸材
私が鳥谷を初めて見たのは早稲田大学1年生のとき。聖望学園時代からプロのスカウトも注目したショートで、3年生の夏はリリーフ役も担い、投打に活躍して同校を初の甲子園出場に導いていましたが、全国から選りすぐりの好選手が集まる六大学野球連盟で1年生の春季リーグからレギュラーを獲得する選手はそういません。
当時は他の選手を目当てに早稲田大学の試合を視察していたので、まだ1年生の鳥谷をじっくり見ていたわけではありませんが、その素材の良さは際立っていましたね。2年生の春には史上最速タイで三冠王を獲得。誰がどう見ても間違いない逸材でした。
鳥谷が3年生の春から早稲田大学はリーグ4連覇を成し遂げる黄金期。特に鳥谷が3年生のときは錚々たるメンバーがそろっていました。エースが1学年上の和田毅、内野はショートの鳥谷のほかはファーストが武内晋一、セカンドに田中博康、サードは比嘉寿光。外野にも青木宣親、由田慎太郎と、のちにプロに行く選手がズラリ。中でも鳥谷は4連覇中、打率が.350を下回るシーズンがないという抜群の安定感を誇っていました。
東都大学野球連盟の名物監督だった東洋大学の高橋昭雄さんと話しているとき、「早稲田の鳥谷って、そんなにいいのかよ」と聞かれ、「ちょっと抜けていますよ」と返しました。すると高橋さんは「うちのショートだっていいぞ」と、巨人から5位指名されることになる岩舘学に自信を持っているようでしたが、しばらくして東洋大学が早稲田大学とオープン戦を行うと「あいつはすごい。岩舘より上だ」と納得されていました。
そのころ思い描いた青写真は2002年のドラフトで和田を獲って、翌年に鳥谷を獲る。早稲田大学に通い詰めていました。25年間のスカウト人生を追想しても、もっとも精力的に動いたのはそのときだったように思います。
自由に使えるクレジットカード
和田はダイエー(現ソフトバンク)にさらわれましたが、懸命にアプローチしました。ご両親にもお会いしましたし、当時、阪神の編成部にいた職員の奥さんが和田のお母さんと一緒に実業団でバレーボールをやっていたことがあり、そのルートも使いました。ちなみにお母さんもレフティのアタッカーだったそうです。やはり親の影響力は小さくないですから、阪神に行くのが一番だと思ってもらうことは大切です。
ただ、和田は何度か食事に誘い、接してみて、彼は絶対に自分で決める選手だと感じました。もちろん親の話にも耳を傾けるでしょうけど、そのくらい自立できていました。
また、当時の早稲田大学の監督の野村徹さんはとても厳格な方でした。選手の進路の決定権を持って入団先の球団から謝礼をもらう監督もいる中、野村さんはまったく関与しない。ですので、野村さんを口説いても扉は開かない。私としての狙いはとにかく本人でした。
他の球団が和田に自由に使えるクレジットカードを持たせている。球団がそんな情報を聞きつけ、うちも遅れを取るわけにはいかないと「これで後輩に食事でも食べさせてあげて」と私もカードを渡しました。ただ、これは和田に限った話ではなく、その頃は是が非でも欲しいというドラフトの目玉候補になるような選手に対しては複数球団が行っていたことでした。
ソフトバンク和田がプロで活躍できた理由
しかし、しばらくして和田はクレジットカードを一切、使うことなく私に返してきました。食事をご馳走になるくらいならまだしも、大金を受け取ってしまえば決断に迷いが生じかねない。裏金が横行し、選手側から金銭を要求してくる例も少なくない中、きちんと先のことを想像して行動していました。それはプロで活躍できたことと無縁ではないでしょう。
7球団が獲得に動き、4球団に絞られた段階では阪神も残っていましたが、結局、和田が選んだのはダイエーでした。ショックは大きかったですね。ですが、もし和田が獲れていたら、翌年の鳥谷は獲得できなかったのですから、わからないものです。
後編を読む『〈スカウトが明かす初出しエピソード満載〉8球団が獲得意思を表明。天才・鳥谷敬はなぜ阪神を選んだのか?』