ベトナム国家主席の基調講演
日本を含むインド太平洋地域の防衛関係者らが一堂に会するIISS(英国際問題戦略研究所)主催の「シャングリア・ダイアログ」(アジア安全保障会議)が、5月29日から31日まで、シンガポールのシャングリラホテルで開催された。23回目を迎えた今回は、5月29日の晩に、ベトナムのトー・ラム(蘇林)国家主席・共産党書記長の基調講演で幕を開けた。
世界の「2大安全保障会議」と言われるのが、1962年から2月にドイツで行われているミュンヘン安全保障会議(MSC)と、2002年から5月末にシンガポールで行われているシャングリア・ダイアログだ。今年はどちらも、日本から小泉進次郎防衛相が参加した。小泉防衛相のシンガポールでの「活動」については、すでに同行記者たちが詳細に報じているので、ここではほとんど報じられていないベトナムとアメリカのスピーチにスポットを当てる。
シャングリア・ダイアログでは、毎年の基調講演に、その年にアジアで話題を呼んでいるリーダーが選ばれる。2022年は防衛3文書を変えようとしていた岸田文雄首相、2023年は中国と対話を再開させたオーストラリアのアンソニー・アルバニージー首相、2024年は逆に中国と激しく対立するフィリピンのフェルディナンド・マルコスJr.大統領、2025年は「アジアへの回帰」(ニューカレドニアなどを領有)を強調するフランスのエマニュエル・マクロン大統領が、それぞれ登壇した。
今回、トー・ラム主席が選ばれた理由は、察するに、4月7日に新たにベトナムの国家主席にも就任したからだろう。いまASEAN(東南アジア諸国連合)で最も上り調子の68歳のリーダーであり、中国と同じ社会主義国であることから「ベトナムの習近平」とも囁かれている(本人は迷惑かもしれないが)。
これまでベトナムは、これも推察するに中国を「反面教師」として、4人のリーダーによる「分権体制」を敷いていた。すなわちベトナム共産党書記長、国家主席、首相、国会議長である。
それをトー・ラム氏は、2024年8月3日に共産党書記長に就任したばかりか、上述のように今年4月には国家主席にも就いてしまった。残りの首相も国会議長も「子飼い」であることを鑑みれば、久々にベトナムに、強大な権力を有するリーダーが誕生したことになる。
トー・ラム主席の「竹外交」
トー・ラム外交が見事だと思うのは、ベトナム式の「竹外交」を完璧に実践していることだ。ベトナムは、20世紀に4つの大国(日本・フランス・アメリカ・中国)と戦争した。それらにすべて勝利したと誇ってはいるが、21世紀は戦争を避けるために、世界に一切、敵国を作らない外交政策を取っている。それが、竹のように根はしっかりしていながら自在にしなる「竹外交」である。
トー・ラム書記長は、4月7日に国家主席に就くや、すぐに北京に飛んで、15日に習近平主席と中越首脳会談。翌5月2日には、ハノイで高市早苗首相と日越首脳会談に臨んだ。
それが終わるや、今度はインドに飛び、6日にニューデリーでナランドラ・モディ首相と印越首脳会談を行った。国家主席就任前の2月20日には、ワシントンで米ドナルド・トランプ大統領とも米越首脳会談を行っている。
現在ASEANの多くの国は、アメリカだけに付くでもなく、中国だけに付くでもなく、米中を両睨みしながら、したたかに生存を図ろうとしている。その意味で私は、そうした典型的な国であるベトナムが、世界に向けてどんなメッセージを発信するのかに注目していた。
トー・ラム主席の20分弱のスピーチのタイトルは、「変化に満ちた世界で、平和・安定・発展を積極的に創造する」。まず冒頭で、「3つの危機が起こっている」という現状認識を述べた。
「今日の世界を見渡すと、現在の不安定さは、国際秩序の危機、開発モデルの危機、そして戦略的信頼の危機という、同時に発生し互いに影響し合う3つの根本的な危機を反映していると私は考えている。
国際秩序の危機は、ルールが依然として言及されているものの、その拘束力が弱まり、約束が依然として表明されているものの、行動がまさにその約束を損なうとき、国際法の基本原則が主観的に解釈され、一貫性のない実施が行われ、あるいは権力の行使よりも優先され、『弱肉強食』の考え方が蔓延するときに始まる。
第二に、開発モデルに危機が生じている。数十年にわたり、グローバル化、貿易、投資、技術、サプライチェーンの連結性は、発展途上国を含む多くの国々に莫大な開発機会をもたらしてきた。しかし、まさにこれらの原動力が今、新たな圧力に直面している。
3つ目は、戦略的信頼の危機である。これは、各国が互いの行動を疑念と不安の目で見るようになるため、静かに進行する危険な危機だ。信頼が損なわれると、防衛的な行動が挑発と解釈され、利害の相違が対立に発展し、対話、コミュニケーション、自制心が欠如すれば、些細な出来事が連鎖的な反応を引き起こす可能性がある」
アジア太平洋の6つの方向性
その上で、「平和で安定した、発展した、そしてリスクを早期かつ遠隔的に軽減できる能力を備えた、強靭なアジア太平洋地域を共同で構築するための方向性」を、6つ提案したのだった。
「第一に、ルールと対話は、現実のリスクを軽減するための効果的な手段とならなければならない。対話はリスクを早期に特定し、情報を共有し、緊張が高まった際にコミュニケーションの経路を維持し、相違点が危機に発展するのを防ぐのに役立つものでなければならない。ルールは一貫して執行され、早期警戒システム、緊急通信、事件対応、自制、検証可能な協力といった具体的なメカニズムへと転換されて初めて、その効力を発揮する。
南シナ海問題に関して、ベトナムの立場は一貫しており、明確かつ原則に基づいている。ベトナムは、あらゆる紛争や意見の相違が国際法、特に1982年の国連海洋法条約に基づいて平和的に解決されることを支持する。ベトナムは他国の正当な権利と利益を尊重すると同時に、国際法に従って、自国の独立、主権、主権的権利、および正当な管轄権を断固として堅持する。
第二に、開放的で包摂的、かつASEAN中心の地域構造を構築する必要がある。ベトナムは、2026年のASEAN議長国としてのフィリピンを支持し、緊密に協力する用意がある。加盟国と協力して平和と安全保障を強化し、繁栄の回廊を拡大し、連結性を促進し、包摂的で持続可能な開発を推進し、ASEANの人々を中心に据える。
第三に、持続可能な安全保障の中核には、人間の安全保障と社会の回復力を据えなければならない。国防力の強化は正当で必要なものだが、持続可能な安全保障は軍事力だけに頼るべきではなく、軍拡競争や他国の開発不安の増大によって築かれるものでもない。必要なのは、開放的で多様なサプライチェーン、シームレスなインフラ接続、金融、技術、人材における協力、そして災害救援、医療、水の安全保障、食料安全保障、エネルギー安全保障、サイバーセキュリティ、重要インフラの保護、捜索救助における実践的な協力など、ショックに非常に強い開発基盤である。
第四に、新たな技術と防衛産業に対する責任ある基準を確立する必要がある。AI、ビッグデータ、量子技術、自動化システム、宇宙技術、サイバーセキュリティ、ハイテクサプライチェーンは、国際安全保障のあり方を根本から変えつつある。防衛産業は、正当な防衛と地域安定に貢献するべきであり、軍拡競争の原動力となってはならない。
第五に、社会基盤と回復力を強化し、情報空間を保護し、意識を高めることが必要だ。深く相互接続されたデジタル世界では、不安定化は軍事紛争、サプライチェーンの混乱、サイバー攻撃だけでなく、フェイクニュースなど社会における信頼の失墜からも生じる。
第六に、地域における予防外交、調停、和解の能力を強化する必要がある。多くの危機は、利害の相違のみが原因で発生するのではなく、当事者間に信頼できるコミュニケーション経路、緊張緩和の余地、そして対立を対話へと転換させるメカニズムが欠如していることが原因から起こる」
拍手は「トランプへの恨み」?
こうした提案をした上で、ベトナムの役割も踏まえながら、次のように結論づけたのだった。
「ベトナムは、域内外の有力なパートナーとともに、アジア太平洋地域はすべての正当な利益を有する国が平和・安定・発展に貢献できる開かれた空間であるという真摯なメッセージを発信したいと考えている。この地域は、国際法を尊重し、ASEANの中心的な役割を支持し、緊張緩和に貢献する主要国の透明性と責任ある存在を歓迎する。この地域が望むのは、単に主要国の存在の有無ではなく、責任あるコミットメントである。競争は避けられないものだと認識しているが、それは法律、透明性、そして自制の範囲内で行われるべきだ。
したがって、今日のアジア太平洋地域にとっての選択は、競争か非競争かという二者択一ではない。なぜなら、競争は国際関係の現実だからだ。より重要な選択は、無制限の競争と責任ある共存、分断と対話、疑念・強制とルール・信頼に基づく秩序のどちらを選ぶかだ。ベトナムは、この地域には平和、協力、そして繁栄の道を選ぶ力と共通の利益があると確信している。
ベトナムは、自国の歴史を通して平和の価値を、そして改革と統合の道のりを通して発展の価値を理解してきた。こうした経験から、ベトナムは自国の国益が地域の平和、安定、繁栄と密接に結びついていることを深く認識している。協力関係の拡大、リスクの最小化、そして正当な利益の連携は、ベトナムが国際社会に対する責任を果たすための方法でもある。ベトナムは域内外の国々と協力し、法の支配を強化し、信頼を築き、対話を促進し、協力を強化し、リスクを軽減し、より安全で、より強靭で、より繁栄したアジア太平洋地域を共に築いていく用意がある」
以上である。私はベトナム語ができないので英語通訳のビデオで見たが、実に格調高いスピーチで、拍手が鳴りやまなかった。その拍手は、イラン戦争を起こして東アジアをも大混乱させている「トランプへの恨み」でもあるように思われた。
ヘグセス国防長官のスピーチ
翌30日に主役の座にいたのは、その怨まれているトランプ政権を代表して参加したピート・ヘグセス国防長官だった。「インド太平洋におけるアメリカのビジョン」と題して、約25分にわたるスピーチを行った。その要旨は、以下の通りだ。
「アメリカは、同盟やパートナーシップの新たな道筋を描きつつある。それは、力と利益という現実に基づいたものだ。この道筋は、アメリカをより強くし、同盟国やパートナー国の能力を高め、太平洋地域をより安定させ、安全なものにするだろう。
アメリカが、富裕国の防衛費を補助する時代は終わった。アメリカにとって必要なのは、保護領ではなく、パートナーである。アメリカが求めるのは、(アメリカへの)依存ではなく、責任の分担に基づく同盟関係なのだ。
この連携は、安全保障環境に対する冷静な評価に基づいている。そして、いかなる覇権国(中国)であろうとも、太平洋を支配しようとするならば、それは地域の勢力均衡を崩し、われわれが皆で維持しようとしている均衡を損なうという相互理解に基づいている。
アメリカが求めるもの――そしてトランプ大統領が一貫して表明してきたもの――は、アメリカ人にとっても同盟国にとっても有益な、真に安定した均衡である。中国を含むいかなる国家も覇権を(他国に)強要できず、アメリカおよび同盟国の安全保障や繁栄を脅かすことのできない、有利でありながら持続可能な勢力均衡なのだ。
アメリカは、均衡を崩すのではなく、維持するために活動している勢力である。それは極めて単純明快なことだ。
健全な平和こそがアメリカの目標だが、誤解のないように言っておくと、アメリカは太平洋国家であり、アメリカは中国に対し、この地域におけるわれわれの長年の立場を尊重するよう強く求めている。そして単に主張するだけでなく、それを裏付ける明白な軍事力を維持していく。
アメリカは、空虚なレトリックや見せかけの威嚇よりも、実戦能力、戦略的規律、そして実務的な協力を優先していく。いかなる潜在的な敵対勢力(中国)も、アメリカのハードパワー、集団的な即応態勢、そして揺るぎない決意によって、アメリカのことを評価せざるを得なくなるだろう。
これこそが戦略の論理であり、『力による平和』の本質であり、私たち全員に利益をもたらす太平洋における持続可能な平和の基盤である。私たちの静かだが明確な力が安定と平和をもたらすため、私たち全員がこの政策の恩恵を受けることになるのだ。
双方向の関係性を強調
(アメリカと)同盟国とは双方向の関係であり、全員がリスクを分担して初めて強固な同盟が築けるのだ。この地域において、共通の国益と前例のない脅威環境に後押しされ、同盟国が真に一歩を踏み出し、その姿勢を強めていくと私は楽観視している。実際、すでに進展が見られる。
韓国、フィリピン、日本、オーストラリア、シンガポール、マレーシア、タイ、ベトナム、インドの9カ国は、防衛上の取り組みを約束した。こうした共同の産業基盤は、単なる長期的な目標ではなく、差し迫った、運用上の必須事項だ。だが、集団防衛のために責任を果たすことを拒んだり、自らの役割を果たすことを拒む同盟国に対しては、われわれの協力関係において明確な変化が生じるだろう。
自国の主権を完全に防衛できる強靭で自立した国家のチームを構築するというこのビジョンを、アメリカと共に掲げてほしい。そうすることで、私たち全員に利益をもたらす好ましい勢力均衡を維持し、集団的安全保障に貢献できるのだ。
まさにその時が今だ。私たちが直面する課題は現実のものだが、眼前にある機会もまた現実だ。
われわれは今こそ、この局面に立ち向かわねばならない。危険にさらされているアメリカの全軍部隊に対し、全能の神の祝福がありますように」
以上である。メディア出身だけあって、スピーチは手慣れたもののようだ。なお、ヘグセス国防長官は「We」という単語を頻発したが、それが「アメリカ+同盟国」でなく「アメリカ」を指すことが明解な場合は、あえて「アメリカ」と訳した。
中国の「漢方薬外交」に効くのか
だが、私はヘグセス国防長官のスピーチを聞いていて、一つの疑問が湧いてきた。トランプ政権は、特に今年に入って「西半球の防衛」に重きを置いている。
では東アジアを含む東半球はというと、ヘグセス国防長官に言わせると、次の2つに収斂される。すなわち、第一に東半球の同盟国が、自国の防衛を強化して自己防衛できる力をつけること。第二に、アメリカは「睨み」を利かせ、中国が勝手な振る舞いをできないようにするということだ。
だが中国は、トランプ政権が「単純模式」で考える以上に老獪である。そのことは、日本を含む東アジアの国と地域は熟知している。
例えば、南シナ海、東シナ海、台湾海峡などで、中国は決して、アメリカが今年、ベネズエラやイランに対して行ったような「空爆の雨」は降らせない。その代わり、まるで薄皮を剥がすように、じわじわと迫ってくる。
そうした手法を私は、アメリカの「外科手術外交」に対して、「漢方薬外交」と呼んでいる。このような狡猾な中国の「サラミ戦術」に対して、果たしてアメリカの「睨み」は有効に機能するのだろうか。加えて、先月のトランプ大統領の訪中の様子を見ていると、東アジアの国と地域は、むしろ「米中密約」の方を警戒し始めているようにも思える。
一方、中国は、董軍国防部長(防衛相)の派遣を見送った。2023年3月に3期目の習近平政権が始動して以降、同年は李尚福国防部長が参加し、2024年は失脚した李部長(今年5月7日に執行猶予付き死刑判決が下された)に代わって、董軍国防部長が参加した。だが昨年と今年は、中国は高位の参加者を派遣していない。
おそらく、来年秋の第21回中国共産党大会を控えて、海外で「余計なリスク」が生じるのを恐れているのだろう。高位の人民解放軍幹部にしても、ハイリスクな外遊には行きたくないに違いない。
米中の国防相による「アピール合戦」は、シャングリラ・ダイアログの最大の見所だったのに、残念である。代役として現れた孟祥青・中国国防大学教授が日本に対して吠えたが、小泉防衛相の「反撃」は見事だった。中国の「主張」に対しては、日本は「無視」を決め込むのでなく、小泉防衛相のように正々堂々と日本の「主張」でもって返していくべきだと、私は思う。