生きている限り、人は誰もが悩みや苦しみ、孤独と直面する時期が訪れる。そして多くの場合、それを隠しがちだ。笑顔の裏で、心の中では泣いている、そんな瞬間はないだろうか。
こうした笑顔に隠れた“涙のにおい”を察知し、そっと寄り添う猫が主人公の漫画がある。それが『夜廻り猫』だ。
きっかけは、作者である深谷かほるさんがTwitter(現X)に投稿したことだった。物語に感銘を受けたフォロワーによって、またたく間に拡散。その後、連載化を果たした。現在、コミックは11巻まで刊行され、累計発行部数は70万部を突破。アニメ化も果たし、台湾、中国や韓国でも翻訳版が出版されるなど、多くの人の心を癒し続けている。
そんな大人気作『夜廻り猫』の待望の新刊が、このたび発売される。
深谷かほるさんは、2025年に開催した「FRaU×KANEBO こどもコンテストワークショップ 2025 第二弾 秋期講習」で、子どもたちに向けた色の塗り方や漫画の描き方レッスンの講師も務めていただいたほどFRaUでも馴染みが深い。今回は新刊の発売を記念して、『夜廻り猫』の名作を再び振り返っていく。
夕飯を準備し終えた夜、ある家族の一コマ
主人公の猫、遠藤平蔵が“涙のにおい”に誘われて向かった先は、とある一家のリビングだった。夕飯の支度を終え、食卓に並ぶ料理を前にして座り、スマホを見つめて座る女性の姿がある。
そこへ帰宅した女性の夫。女性の姿を見て「どうした?」と声をかける。
夫は、女性に思いもよらぬ連絡が入ったことを知る。その電話の相手とは、そして内容は一体……。
予備校で息子に訪れた出会い
夫から「どうした」と尋ねられた女性は、息子から電話があったことを伝えた。
「作田くんとラーメン食べに行くって」
夕飯を作って待っていた母親の立場なら、大抵は「作る前に連絡してほしかった」と不満げだったり、「仕方ないわね」とあきれても不思議ではない。しかし女性の表情は、それとはまったく違っていた。
そして夫もまた、その言葉に驚きを隠せない。
「ほんとに?」
二人の様子を見て、声をかける平蔵。
「もし」
「そこなご両親
何かご事情がおありですな?」
息子から「夕飯はいらない」と電話があっただけなのに。なぜ二人はこんなにも感情を揺さぶられているのだろうか。
息子の「これまで」
実は二人の息子・拓は小学生時代、いじめに遭ったことがきっかけで、同年代とうまく関わりが持てないでいたのだ。
話しかけようとすると冷や汗が出てしまう。そのために、誰にも声をかけられぬまま、中高生時代を過ごしていた。
そして大学受験にも失敗。現在は予備校に通っているのだという。
当然、予備校でも誰とも話せずにいた拓。しかしある日、隣に座る男子生徒から話しかけられた。
「なあこの部屋暑くね?」
それが、作田くんというひとりの青年だった。
翌日も、その翌日も、作田くんは拓に話しかけてきた。
予備校で知り合った作田くんは当然、拓の過去を知るはずがない。可哀想とか、話しかけてあげようといった哀れみから話しかけたわけではない。
ただ単に、拓と話したかっただけなのだ。
なんの気遣いもなく、特別扱いもせず、普通に話しかけてくれた。それが拓を救ったに違いない。
「夕飯いらない」
そしてこの日、夫婦にとって思いがけない電話があったのだ。
「ごめん今日夕飯いらない
作田とラーメン」
拓が電話越しに「作田」と呼び捨てにした。その声を聞いた女性が、どれほど嬉しかったことだろうか。彼女は夫に、穏やかな笑みを浮かべながら話しかける。
「今まで口に出せなかったけど
夢だったよね
これが拓とパパと私の
夢だったよね……」
夫婦はきっと、この“願い”を胸にしまいこみながら拓と接してきたのではないだろうか。焦らせることがないように、負担をかけないように……。大丈夫だよと伝えるように、息子のペースに合わせて。
近づきすぎず、決して見放さず、静かに見守り、機が熟すのを待っていたのだろう。
「うん」
「うん」
堪えきれず涙を流す二人に平蔵はそっとティッシュを差し出した。
これから先の、家族の姿
もしかしたらこの先、拓が「黙っているのは嫌だ」と感じ、作田くんに勇気を振り絞って自分の過去を打ち明ける日が来るかもしれない。だとしたら作田くんは、どんなふうに返すのだろう。
「そうか、大変だったな」
そう言って、寄り添ってくれるかもしれない。しかし、もしかしたら、
「へえ、で?」
と、過去など気に留めないように返してくれるかもしれない。
もし拓がその言葉を聞き、「なんだ、大したことじゃないんだ」と思えたなら……。その時、ようやく過去の傷からほんの少し自由になれるのではないだろうか。
そして母親である女性もまた、息子の電話に向かって、こんなふうに言う日が訪れるかもしれない。
「もう、そういうときは事前に連絡してよね。お母さん、ごはん作っちゃったじゃないの」
深谷かほる
福島県出身。2015年10月、旧Twitterにて『夜廻り猫』の連載を開始。以後、毎夜のように更新を続け、読者の共感を得る。2017年「夜廻り猫」で第21回手塚治虫文化賞短編賞、第5回ブクログ大賞の漫画部門大賞を受賞。
構成/笹本絵里(FRaUweb編集部)