みなさんは何歳くらいの記憶が残っているだろう。
医学論文を調べてみると、脳の海馬の関係で、成人が長く記憶に残すのは早くとも3~5歳くらいからの出来事だという。
とはいえ、3~5歳の頃の日々を細かく覚えている人は、そうそういないのではないか。たとえば編集部のあるスタッフは3歳のときにまわりに砂糖がついた大きな飴玉をそのまま飲み込んでしまい、父親に逆さづりにされて背中をたたかれた記憶があるというが、そのあとのことは覚えていない。インパクトの強いことの断片を思い出すという人が多数派なのではないだろうか。
5歳のときの記憶を、動画を見るようにはっきり覚えているというのが、エッセイストの中前結花さんだ。
幼少期の記憶、日常で見落としてしまいそうな小さな優しさや温かさを丁寧にすくいとり、言葉を紡いで人気を博している中前さんが、自身3作目となるエッセイ集『ドロップぽろぽろ』を刊行した。
その大反響を受けて行っているインタビュー。これまで、「毎日泣いています」というほどの豊かな感受性や、人やものを好きになる“気に入り力”など、作品に宿る感性や発想の背景を伝えてきた。
さらに彼女の作品で印象的なのが、まるで目の前で起こっている情景をそのまま描き出すかのような鮮明な表現力、言語化能力だ。ふと交わした誰かとの会話や、いつかの空の色をありありと蘇らせるその力は、どのようにして培われてきたのだろう。早速話を伺っていく。
日記と日報とメモ
中前さんは毎日、その日の出来事を日記に残している。さらに日報やメモにも記録しているという。
「とにかくいっぱい残しています。エッセイに役立つということもありますが、小学生の頃から絵日記を書いていました」
中学生になると、スケジュール帳にその日の出来事を書くようになった。
「好きな人と話せたとか、もう少しで話せそうだったとか、細かなことまで“全部”書いていました」
その習慣は途切れることなく、現在まで続いている。取材時に見せてもらったスケジュール帳やノートには、整った文字で日々の出来事が丁寧に書かれていた。
書籍の打ち合わせ内容や、締め切りまでのスケジュール、さらには書籍担当者がゲラに添えた一筆箋まで、きれいに貼り付けられている。まるで記憶を大切に収めた言葉のジュエリーボックスのようだった。
色ごと蘇る、特殊能力
そして中前さんには驚くべき力が。それを彼女は笑いながらこう言った。
「“特殊能力、超能力”かも。たとえば5歳のときに、先生がどんな服を着て、何を言ったか、そのときの声まで、今でもパッと思い出せるんです」
執筆は、考えながら書くのではなく、“見えたもの”を書いている、と話す。頭の中でビジュアル化された情景をそのまま言葉にしていく、と。
「初めに、聞こえてきた声や見えたもの、その時のわたしの気持ちを一気に書き出して、それから整えていく、そんな書き方かもしれません」
電車の窓から見えた空の色を思い出した後、その色にぴたりとあてはまる色を探す際に重宝しているのが“色辞典”だという。
「パラパラとめくって、『あ、この色だ』と思える色の名前を見つけています。青でも種類はいろいろですからね」
特殊能力とも言える記憶力だけに頼るだけでなく、それを的確に伝えるこだわりと、日々を細やかに書き留めておく積み重ねが、あの鮮やかな描写を生み出しているのだろう。
がんばると、いいことがある
そしてもう一つ、彼女が大切にしているのが「必ず見てくれている人がいる」と信じることだった。
すぐに結果が出なかったとしても、積み重ねてきた努力はきっといつか誰かの目に留まる、その実感を自身の経験から語った。
「3作目の『ドロップぽろぽろ』を発売することになったのも、1作目の『好きよ、トウモロコシ。』を見つけてくれた方がいたからです。
そこまでがんばらなくてもとか、そこまでしなくても、という部分にこだわることで、宿るものが絶対にあると思っています。そしてその努力こそ、これからの自分の世界を広げることにもつながるのではないでしょうか」
その考えは、幼い頃から自然に育まれてきた。
「『ドロップぽろぽろ』の中の『神様のテスト』でも書きましたが、もしその努力がそのまま結果に結びつかなかったとしても、コツコツと努力を続けていたら、どこかで何かにつながるかもしれないし、誰かが見てくれているかもしれない、そんなふうに両親から教えてもらっていたのかもしれません」
本書の中では、このように綴っている。
(以下、抜粋)“全部コツコツとシールを集めるみたいに続けていけば、これからだってきっときっと実現できる気がする。そうやっていこう。そうやって大人になっていけばいい。なんだって、もしかするとそっと、だれかが見てくれている人がいるかもしれないんだから。”(以上、抜粋)ー『ドロップぽろぽろ〜神様のテスト』より
「とくに今はエッセイを書く仕事をしているので、起こることすべてが糧になると思えるんです。悲しいことや嫌なことがあっても、いつかどこかで何かを伝えるエピソードになるかもしれないと思うと、少し救われます。
それに、辛かった経験を友達に話したとき、一緒に泣いてくれたり、いいアドバイスをもらえたりすると、あの出来事があったから、こんなに素敵な時間が生まれたんだと思うこともできますよね」
幼き日の思い出が色や声、空気感とともに鮮やかに蘇る“特殊能力”。それに加え、日記やノート、メモに膨大な記録を残し続けることで、記憶の引き出しを増やし続けてきた。
その積み重ねを支えているのが「見てくれている人がいる」と信じる気持ちだった。すぐに結果が出なくても、重ねた時間はいつか誰かに届く。その信じる気持ちが、日常を丁寧に残す原動力となっているに違いない。
【中前結花/なかまえ・ゆか】
兵庫県生まれ。2010年の上京以降、東京で活動。会社員、フリーランスのライター等さまざまな働き方を経て作家に。2017年、「ほぼ日」に掲載されたエッセイが話題となったことを機にさまざまなメディアでエッセイを書くようになり、俵万智や糸井重里氏、麒麟の川島明氏ほか著名人からも注目を集める。著書3作目のエッセイ集『ドロップぽろぽろ』が反響を呼んでいる。これまでの著書に『好きよ、トウモロコシ。』『ミシンは触らないの』(ともにhayaoki books)。
撮影/松井雄希
インタビュー/新町真弓、構成/笹本絵里(FRaUweb)