プロ野球史上最大のミステリー「KKドラフト」から41年、いま初めて明らかになる物語――。あのとき、球界に渦巻く虚々実々に翻弄されたのは桑田真澄と清原和博だけではなかった。脚光を浴びた2人の周縁で、誰が動き、誰の運命が書き換えられたのか。本当の主役は誰だったのか。
連載『1985 英雄たちのドラフト』
第6回「打高投低」(後編)
【前編記事】「投手の15勝」と「打者の3割30本」どちらが難しいか…「巨人監督」就任当時の王貞治の考え
「ジャイアンツ」の由来
時計の針を1984年から半世紀戻す。
1934年11月、読売新聞社社長の正力松太郎は、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、レフティ・ゴメスら現役の一流メジャーリーガーを招聘し、京都商の沢村栄治、旭川中のヴィクトル・スタルヒン、早大の三原脩、慶大の水原茂、東京倶楽部の苅田久徳らからなる全日本選抜チームと対戦させた。
「日米大野球戦」と銘打たれたこの国際親善試合は16戦行われ、全日本選抜チームの全敗に終わったが、主催者の正力松太郎は満足だった。本来の目的である新聞購買数が飛躍的に増加したからだ。
そこで、正力はさらなる購買数の拡大を目指し、全日本選抜チームを米国遠征に出発させる。チームが米国を転戦する様子を読売新聞で独占的に報じようと考えたのだ。かくして全日本選抜チームは「大日本東京野球倶楽部」と命名され、全米各地で128日間109試合(ダブルヘッダー34試合を含む)を戦った。
ブッキングマネージャーを務めたサンフランシスコ・ジャイアンツのレフティ・オドールは、日本野球の予想以上のレベルの高さに舌を巻きつつも「チーム名が長ったらしい。メジャーリーグのようにニックネームを付けてはどうか」と提案した。それを受けて大日本野球倶楽部は「東京ジャイアンツ」と便宜的に名乗り、最終的に正式なチーム名とした。以上が現在の読売ジャイアンツ(巨人軍)発祥の記録であり、プロ野球の歴史はそのまま「巨人軍の歴史」と言い換えられる何よりの証左である。
正力松太郎の長男で、巨人軍第2代オーナーとなった正力亨は、球団創設50周年を迎えた1984年、「新巨人元年」のスローガンを掲げ、記念キャンペーンを次々と催した。人気選手を稼働させてのイベントを各地で頻繁に行い、テレビとラジオのスポットCMをふんだんに打ち、ユニフォームの袖に50周年記念ワッペンを縫い付けさせた。
「世界のホームラン王」として国際的に知名度の高い王貞治を監督に迎え入れたのもその一環である。3年間で日本一1回、リーグ優勝2回という好成績を収めた前監督の藤田元司は、最初から王貞治に監督就任させるための繋ぎでしかなく、それは藤田自身も承服していたはずだ。
正力亨は亡父から受け継いだ米国との人脈まで駆使し、ワールドシリーズのチャンピオンチームと、日本シリーズ制覇球団による「世界一決定戦」のプランまでまとめてしまった。初戦と2戦目の開催地は後楽園球場、ワールドシリーズのチャンピオンチームの招聘は亡父の悲願であり、迎え撃つのは巨人軍以外ありえなかった。
球団創設50周年のプレッシャーは新監督に就任した王貞治に重くのしかかった。そのストレスは、我々の想像をゆうに超えるものだったに違いない。
「王さんが監督に就任して雰囲気がガラッと変わったんです。藤田さんのときとまるで違う。特にこの初年度のときはキャンプの時点で相当ピリピリしていた。『絶対に優勝しなきゃならん』という近寄り難い空気です。それが我々記者にも伝わって来るから気が重かった。当然、選手はたまったもんじゃなかったでしょう」(この時期、サンケイスポーツの巨人担当記者だった清水満)
就任会見で「打高投低を目指す」と宣言した巨人軍新監督の王貞治は、1月29日からのグアムキャンプで早くもそれを断行した。エースである江川卓の特権剥奪がそれだ。
投手出身者らしく彼らの心理を読むことに長けていた前監督の藤田元司は、シーズン前のキャンプにおいて、江川に対しては独自のマイペース調整を認めていた。「一見呑気なようで責任感の強い江川の場合、本人に任せた方がうまくいく」と悟っていたからだ。
しかし、王はその特権を許さなかった。第1次キャンプのグアムから、若手投手と同じメニューを江川に課した。「打高投低を目指す」と言った手前、エースであっても特別待遇など論外だったのだ。
1984年4月6日、セリーグのペナントレースが開幕した。前年優勝チームの巨人は阪神との開幕3連戦で、大方の予想通りエースの江川卓が先発マウンドに立った。「新巨人元年」を謳う以上「開幕戦はエースで勝つ」というのは、新監督にとって既定路線だったはずだ。
しかし、これが誤算を招く。江川は立ち上がりに1点を先取され、その裏に助っ人のレジー・スミスの満塁弾で勝ち越すも、3回表に阪神打線の猛攻に遭い滅多打ち。4回10安打6失点という散々な内容でマウンドを降りた。開幕マウンドでエースがここまで滅多打ちに遭うのは珍しいことで、調整ミスは明らかだった。
その後も江川の調子は上がらず、チームも低迷、優勝争いから早々に脱落した。オールスターゲームで8連続奪三振という活躍も見せるなど、後半になってようやく江川の調子が上向きとなり、最終的には15勝5敗、防御率3・48、勝率.750(リーグ1位)という数字の上では及第点と言える成績を残したが、節目の試合では結果を残せず、期待外れは明白だった。
球団創設50周年というメモリアルイヤーでありながら、1984年の巨人軍は67勝54敗9分、勝率554で3位に終わった。ワールドシリーズのチャンピオンチームであるボルチモア・オリオールズとの「世界一決定戦」に名乗りを挙げたのは、セリーグを制し、パリーグ覇者の阪急ブレーブスを破って日本一となった広島東洋カープだった。
後楽園球場で行われた10月27日の初戦こそ先発投手である川口和久の好投もあって広島が1対0で勝利を収めたが、翌日は5対3でオリオールズが勝ち、西武ライオンズ球場、横浜スタジアムに舞台を移したその後の試合も、5対3、7対5といずれもオリオールズが勝利を収めた。まったく盛り上がりに欠けた「日米世界一決定戦」が二度と行われることはなかった。
新監督である王貞治が目指した通り、巨人軍は打高投低のチームに生まれ変わった。しかし、それでは優勝など覚束ないことを、監督自らの手で証明したのである。
【毎週水曜日更新】5月20日配信の第7回に続く