日本人女性で初めて、ヒマラヤ8000m峰14座を全て登頂した看護師で登山家の渡邊直子。
休憩のつもりで通い続けていたら、いつの間にかヒマラヤの8000m峰に31回も登っていたといいます。
そんな彼女の初めての著書、『エベレストは居酒屋です』より
「プロローグ」を本の中にも掲載した貴重な写真ともに特別公開!
日本人が知らない、ヒマラヤの魅力とは?
標高8027mでの涙
2024年10月9日朝8時30分。
私はヒマラヤ山脈のシシャパンマ8027mの頂に立ちました。日本人女性として初めて、8000m峰14座すべてを登りきった瞬間です。
「登れちゃった……」
私は山頂で涙を流すことはほとんどありません。でも、このときは涙があふれて止まりませんでした。
記録達成をかけたこの日、私は決して万全の状態ではありませんでした。
体調は回復傾向でしたが、最終キャンプ地で1時間の仮眠のあと、吐き気が治まらず、「いつ帰ると言おうか」と頭の中で何度も考えました。
そんななかで、「もう少し行けるかな」「いや、ここでやめよう」その葛藤を繰り返すうちに、気づけば空が白み始め、私は頂上まであと1時間ほどの地点に立っていたのです。
このシシャパンマ遠征には、同じようにヒマラヤ全14座登頂まで「あと1座」をかけて、世界中から名だたる登山家たちと昔から仲のいいシェルパたちが一斉に集っていました。
先に登頂を果たし、下りてきた登山家たちからの「もう少しだよ」という言葉が、どれだけ背中を押してくれたことか。
そして何より、仲のいいシェルパたちが、下積み時代を経て活躍するようになり、このシシャパンマで再び集まって毎日を共に過ごせたことが、登頂よりもうれしいことでした。
山頂での涙の理由は、登頂できたことへの驚きとほっとした気持ちが一つ。そしてたくさんの方がサポートしてくださったなという感謝の気持ちがこみあげてきたからなのだと思います。
本当の自分でいられる場所
あらためて自己紹介を。
8000m峰遠征の魅力に心奪われ続ける、渡邊直子です。
私はこれまで看護師として働き、給料をつぎ込んで、時には借金をしてでも8000m峰遠征に通う、という生活を10年以上送ってきました。
日本の人にとって「ヒマラヤ」は、過酷な場所であり、簡単には行けないところというイメージがまだまだあるような気がしています。でも、私にとってヒマラヤは完全に「息抜き」です。
日本にいると、人間関係で息苦しくなったり、いろいろなことを億劫に感じることが多いのですが、ヒマラヤで過ごすと、いつも不思議と「素直な自分」に戻れる感覚があります。
人と話すことが苦にならず、心が解きほぐれていく。
シェルパたちの考え方に触れたり、毎日起こるハプニングや普段できない刺激的な体験をしたり、圧倒的な景色を目の当たりにすることで、日常の悩みや不安が一気にちっぽけになってくるのです。
私にとってヒマラヤは、皆さんが仕事終わりに同僚や友人と居酒屋で一杯やるようなもの。
そんな「居酒屋通い」を続けていたら、いつの間にかヒマラヤの8000m峰に31回も登っていました。
現時点で、世界の女性で最も多い登山回数です。自分らしい記録だと自負しています。
今や、14座も誰だって制覇できる
しかし、全14座を制覇した初の日本人女性という記録を残すことになったことが、すごいとはまったく思っていません。
富士山に誰でも登れるようになったのと一緒で、今や14座も誰だって制覇することができる。
皆が簡単に登ったわけではありませんが、世界にはすでに14座全登頂者が80人以上います(2025年10月現在)。もはやここ最近の登山界では特別なこととは言えない、そんな空気すら漂っているのです。
だから今、登山家たちは、「3ヵ月以内に14座をすべて登る」「14座のうち3座を24時間以内に登る」「前回は無酸素じゃなかったから今回は無酸素で登る」など、次々に違う目標を設定して、新しい記録を狙いにいっているのが実情です。
けれど、私は休暇を楽しむためにヒマラヤに来ているので、記録にはほとんど興味がありません。
登頂はあくまで2番目の目的で、一番は楽しむこと、そしてリフレッシュすること。でも、根底にあるのは「嫌いな自分を好きになりたい」という思いです。
ヒマラヤで過ごしていると、子どものように無邪気になれる。取り繕うことのできない自然の中で、今まで知らなかった自分の良いところを発見できたりもする。
ヒマラヤにいるときこそ、本当の自分でいられる気がするんです。
そうして自分と向き合いながら通い続けるうちに、気がつけば14座達成していました。
世間からは14座すべてを制覇した人が特別な人間のように見えるかもしれませんが、少なくとも私はそうではありません。
もし誇れることがあるとすれば、看護師として働いた給料で登り続けていたこと、30回以上登っているのに、大きなケガや凍傷もなく、日本に無事に帰っていることでしょう。
8000m峰遠征に、登頂することよりも楽しむことを第1の目的にしている人は、きっと世界で私一人だけだと思います。
まっすぐな道ばかりが正解じゃない
山では、さまざまな価値観を持つ人たちと時間を共にします。「え? それを許せるの?」「どうしてそうなったの?」──そんなふうに驚くこともしょっちゅうです。けれど、そうした違いこそが刺激となり、ときに自分の世界を広げてくれます。
また、自然は予測できないことの連続です。
雪崩に巻き込まれたり、意識が遠のいてクレバス(雪渓にできた深い割れ目)に飛び込もうとしたり、生死の狭間で思いがけない出来事に遭うこともあります。そのときは驚いたり、怖がったりしますが、誰もが経験できることではない特別な学びとなり、生きていく力へと変わると思うと、すべてが楽しかった思い出に変換されるのです。
世の中にはたくさんのルールがあり、それを守ることも大切ですが、ときに、常識や固定観念にとらわれず、「少し寄り道するくらいがいい」と思っています。
まっすぐな道ばかりが正解ではなく、ときに道を外れてみることで、人生はずっと豊かになる。
もしあなたも私と同じように、自分を好きになれなかったり、コンプレックスを抱えて悩んでいたりするなら──。
私のヒマラヤで得た学びが、居酒屋での一杯のように、少しでもあなたの心をほぐし、明日からの生きる力につながってくれたらうれしいです。
日本人女性で初めてヒマラヤ全8000m峰を登頂した渡邊直子さんの初著作、『エベレストは居酒屋です』より。
いざ、のれんをくぐって──渡邊直子が見てきた景色へ!