先端医療装置に支えられた外科手術、大幅に進歩した化学療法など、華々しい最新の治療法が開発されている「がん」の治療。しかし、残念なことに現在も、多くの先進国で死因トップに君臨し続けるのはがんです。
がんは遺伝などの先天的な要因より、 日々の「習慣」に大きく左右されることが明らかになってきており、がん対策の決め手は「予防」であると言われています。しかし、必要だとわかっていても習慣のコントロールはなかなか難しいものです。
患者が後悔するのをもう見たくない――この切実な思いから、新しい概念「がん活」を勧めるのが、内科医師で、大阪公立大学教授の川口知哉さん。
川口さんがこの度出版した著書『「がん活」のすすめ 科学と名言でつくる「がんを寄せつけない習慣」』では、退屈で面白くないがん予防の習慣を、賢者たちの「名言」を支えにして前向きに、軽やかに行う、というユニークなもの。では、「名言でがん予防」とは、いったいどういう方法なのでしょうか。
今回は、前回の記事で取り上げた睡眠と深い関係のある、ストレスとがんについての解説をお届けします。
*本記事は、『「がん活」のすすめ 科学と名言でつくる「がんを寄せつけない習慣」』(ブルーバックス)を再構成・再編集したものです。
ストレスへの対処法を説いていたシェイクスピア
前回記事では、睡眠について取り上げたが、睡眠と密接に関係するもう一つの要素が「ストレス」である。不眠の多くは、心身の緊張や心理的負荷を背景としており、ストレスを語らずして睡眠の問題を理解することはできない。
そこで、ストレスがどのようにして健康、とりわけがんのリスクに影響するのかについて考えてみたい。
ただし、ストレスとがんの関係を説明することは、じつは簡単ではない。痛みや発熱のように客観的に測れるものとは違い、ストレスは主観的で、人によって感じ方が大きく異なるうえ、強さや持続時間も変化しやすいものだからだ。さらには、生活習慣や社会的背景も 深くからみ合う。一筋縄ではいかない、注意深さが必要なテーマなのだ。
それでも最近、「強いストレスが長く続くと、がんを含む主要な病気のリスクがじわじわと高まる」という全体像は少しずつ明らかになってきた。「ストレスは体に悪い」という直感的な印象が、日本を含む多くの研究によって、医学的なデータに裏づけられたものになってきたのである。
心の柔軟さは、健康に直結する
心も歓喜と快活に保つがよい。そうすれば百害を防ぎ、 寿命を延ばす。
ウィリアム・シェイクスピア
(1564-1616 イギリスの劇作家・詩人)
人間の愛・嫉妬・権力・裏切りといった普遍的な感情を鋭く描いたシェイクスピアの作品 は、いまなお世界中で上演されつづけている。
しかし、彼が活躍していた当時のロンドンは、 華やかな舞台とは裏腹に、疫病の恐怖にさらされていた。ペストの大流行により劇場は幾度も閉鎖され、芸術家たちは生活の危機に瀕した。
そうした不安と混乱の時代にあっても、シェイクスピアの筆は止まらなかった。深く絶望するしかない悲劇の中にさえ人間の尊厳や再生の契機を織り込み、喜劇の軽やかな笑いで、観客の心を癒やそうとした。
「心を快活に保つことが健康を守り、寿命を延ばす」という彼の考えは、現代の心理学や医学の成果と重なり合う。ポジティブな感情がストレス反応を和らげ、免疫機能や心身の回復力を高めることは、いまや数多くの研究で示されている。
数百年前にシェイクスピアが舞台で表現した「ユーモアと快活さの力」は、今日の科学が裏づける「心理的レジリエンス」、すなわち、逆境やストレスに直面したときに、心と体をうまく立て直す回復力やしなやかさにほかならない。つまり、心の柔軟さは、健康にも直結している。
この「折れない心」は、生まれつきの性格ではなく、日常の小さな習慣や思考の持ち方を通じて育まれるものなのだ。
ストレスが炎症を起こし、がんのリスクを高める
1990年代から始まった国立がん研究センターによる多目的コホート研究であるJPHC(Japan Public Health Center-based)研究において、心理的ストレスとがんリスクの関連が解析された。参加者に 「日常生活でどの程度ストレスを感じているか」を自己申告させ、その後のがん発症率を追跡した。
その結果、「ストレスが常に高い」と答えた群は、「ストレスが低い」と答えた群に比べて、がん全体の発症リスクが約11%高いことが示された。とくに男性で、喫煙、飲酒、肥満のある場合に明らかであった。
そのメカニズムについては、いくつかの機序が関与している可能性が考えられている。
ストレスが、がんリスクを高めるメカニズム
ストレスが慢性的に持続すると、脳と副腎が連携してストレス反応を制御する「視床下部ー下垂体ー副腎(HPA)軸」が過剰に活性化された状態で持続するとされている。HPA軸は、脳の最深部にある視床下部がストレス信号を受け取り、それを下垂体、さらに副腎へと伝えていく一連の経路で、いわば「体のストレス指令系統」である。
その結果、副腎から分泌されるコルチゾール(ストレスホルモン)が慢性的に高い状態で保たれると考えられる。コルチゾールは本来、炎症を抑え、血糖を保つことで体を守る役割を果たすが、高すぎる状態が長く続くと逆に免疫の調節機能が乱れ、体内の防御システム全体に負荷がかかる可能性が指摘されている。
こうしたHPA軸の過活動が続くと、IL-6、TNF-αなどの、炎症に関与するタンパク質「炎症性メディエーター」 の基礎値が上昇する。炎症性メディエーターとは細胞どうしが交わす「炎症のメッセージ」のことで、少量なら防御反応として必要だが、慢性的に高いと炎症が全身に広がって、細胞の老化や遺伝子損傷の蓄積を招きやすい。
こうした状態ではDNA修復機能が損なわれ、免疫監視機構も十分に働きにくくなるおそれがあり、結果として、腫瘍を取り巻く微小環境が、腫瘍の成長に有利な方向へ傾くのだろう。
さらに、酸化ストレスや肥満などを背景として細胞老化が進行すると、老化した細胞はSASP(細胞老化関連分泌現象)を介して炎症性メディエーターを分泌しつづけることが知られている。このような状態では、周囲の組織環境が変化し、がん細胞の浸潤や増殖にとって好ましい条件が形成される危険性が示唆されている。
台湾の大規模コホートを含む疫学研究でも、慢性炎症や代謝異常の複合マーカーが高い人ほど、将来のがん罹患率が上昇することが示されている。「ストレスは気の持ちよう」といった 単純な表現では説明しきれない関係が、がんとストレスの間にはあるのだ。
「ストレス-炎症-がん」の流れを断ち切る
ストレスが炎症を生み、それががんにつながるという流れを断ち切るには、生活習慣を積極的に整えることが大切である。
ウォーキングやジョギングといった有酸素運動や、筋力トレーニングのような運動は、体内で抗炎症作用を持つマイオカインという物質を分泌させ、血糖のコントロールを改善し、老化細胞が出す有害なシグナル(SASP)を抑えることも期待されている。加えて、内臓脂肪を減らすことも慢性炎症を軽減するうえで有効と考えられている。
つまり、行動によって体を整え、思考によって心の枠組みを変えることが、ストレスの連鎖を断ち切る鍵となるのだ。
ストレスを完全に排除することは不可能である。だが、行動を変え、体を動かし、よく眠り、そして視点を変えることで、ストレスがもたらす心理的負担のみならず、生理的負担をも大幅に軽減することができる。
心の静けさを取り戻すことは、単なる精神的安らぎではなく、生理的にがんを遠ざける「がん活」の実践でもあるのだ。
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後付け ストレスを発散するには有酸素運動などの運動が有効である理由がお分かりいただけたかと思います。しかしながら、私たちは、ときにストレスの軽減を目的として、運動より嗜好品に目が向きがちです。
次回からは、がんの予防と嗜好品の関係について考えていきます。まずは、禁煙とがん予防についてです。
「がん活」のすすめ 科学と名言でつくる「がんを寄せつけない習慣」
華々しい治療法が開発されている現在も、がん対策の決め手は「予防」だ。地道で面白くない習慣を続けるには、先人の「名言」が効く!