創作活動によって回復の糸口をつかんだ天地氏だが、そこに至るまでの道のりは、決して平たんなものではなかった。新聞記者の激務で追い詰められたのか、20代の終わり頃ついに統合失調症の症状を発症した彼は、苦しみぬいた末、ついに入院に至る。病棟では、どんな生活が待っていたのか。著書のなかから抜粋してお届けする。
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【前編を読む】「ゾーンに入るとスイッチが振り切れて…」統合失調症を抱えた元新聞記者が語る「私の頭のなか」
「分かるように説明しろ!」
統合失調症を発症し、いくつかの奇行を繰り返した私は、2014年7月のある朝、母に「今日しかない」と言ったそうだ。母は「入院」が頭に浮かんだようだ。父と兄に「ドライブに行こう」と誘われて海を見に行った後、病院へと向かった。
主治医が来て、話を父がして即入院となった。
家族と離れ女性看護師さんと5階の病棟へ。喫煙所でたばこを二本吸って、「保護室」なる頑丈な壁の個室へと向かった。女性看護師さんとは離れて、屈強な二人の男性看護師に導かれた。そして主治医が注射器を持って部屋に現れた。看護師に羽交い締めにされ、必死に抵抗した。
私は少し力があるため看護師も必死だった。そして主治医に激しく詰め寄った。
「分かるように説明しろ、私はこのような扱いを受ける筋合いはない」
「興奮を静めよく眠れます」
「わかった」
私は体を委ねた。すーっと眠れた。久しぶりの熟睡だった。
目が覚めると憑きもの(つきもの)がとれたように晴れ晴れし、お腹がすいた。
もう夕方だ。
大声を出したら何もない部屋だけによく響いた。
なぜか、一人で静かにこの部屋で過ごせることが快適と感じた。
そこは二週間以上、私の城になった。
翌日か忘れたが母が面会に来た。私は母が泣いて私の入院を許したのを知らず、意気揚々と「ぶち(=とても)快適」と伝えた。母は苦笑いして差し入れのゴーヤチャンプルーと納豆巻をくれ、冷たいスポーツドリンクも用意し、私はむさぼった。
保護室での生活は午前八時までに起床してホールへ出て、他の一般病室の人と朝食をとり、一服してのんびりし、昼食をとり夕方まで過ごし、保護室へ戻るといったもの。
週に三回の風呂、後は売店での買い物だ。タバコも控えめに済んだ。制限された生活が当初は心地よかった。
精神科病院で「キング」になる
保護室は家族からすると、悲惨でかわいそうと感じるらしい。しかし私にとっては、誰かに見られている、つけられているといった攻撃的なものから身を隠せる安心感のある場所だった。
食事や風呂や午後のくつろぎの場で病棟の人間関係について考えた。
「この長老は貫禄もあるし開放された個室だし、彼は実は理事長で現場を確かめているのでは?」
とか、
「この元気な若者は誰にもきさくに話しかけている。病院に雇われているのでは?」
などと勘ぐった。
それから保護室の隣の住人に気を許した。彼は五十代半ばで自衛隊で偉い位だったと私に信じ込ませた。ホールで絵を描いていた女性を指さして、
「あの人は女神じゃから挨拶(あいさつ)してこい」
と言われ、挨拶したりした。
女性も「そうじゃ、私は女神じゃ」
と答えたから不思議だ。
あまりに彼の言うことを聞いていたら、ある人が、
「あいつは入院常連で、大ぼら吹きだから気をつけな」
と注意された。
最近、数年ぶりに外来で彼と再会した。彼はまた入院するかもと言っていた。2019年にも入院したらしい。
私のことはみんなで「キング」と呼んでいたらしい。
無頼派ではあるものの輪を大切にし、ケンカの仲裁や、ケンカを売られても一喝していたためか? 声も大きいのもあったのかもしれないが、真偽は分からない。
大部屋は小さな社会
話はもどる。
保護室ではノートもペンも持ち込めない。思いついたことがあった私は、唯一の備品のトイレットペーパーをちぎって並べて活字にして、朝の開門とともにノートに写した。今となってはどうでもいいメモだ。
しかし保護室は看護師にモニタリングされており、看護師が朝に箒(ほうき)とちりとりを持参してさっさと消してしまわぬように、事前に覚えておくなど対策した。
時に「ガリガリ君ソーダ」が歯にしみ出した。原因は歯を強い力でゴシゴシ磨いて歯茎を傷めていたから。入院の後半はアイスクリームを次第に食べられなくなっていった。
保護室生活もだいぶ慣れてきたある入浴の日。入浴後に「ガリガリ君ソーダ」が歯にしみて痛いのを我慢しながら食べ、Y君らとふざけていたら年配の看護師に、
「今日から大部屋です」
といきなり言われた。
「えー、もう保護室卒業?」
そしてベッドのある六人部屋に移った。そこには寝たきりの人からもうすぐ退院の人がいた。一人でぶつぶつ何か言っている人もいた。
「大部屋って小さな社会だな」と感じ、しばらくは年配の方のために父から借りたテープで演歌を流し、ご機嫌をとった。しかし数週間すると一人の長老とそりが合わなくなり、人間関係に悩み大声でけんかもした。
後で分かったが、この方は大変浮き沈みが激しく、私と仲良かったときは非常に軽い症状だったそうだ。私の担当看護師が「部屋を変えましょうか」と提案してくれて、従った。
変わった先でも問題が起こる。
年配の人でラジオを大音量でかけ、しかも周波数が合っておらず雑音が響き、とてもうるさかった。しかもラジカセを置いたまま長い間どこかへ行ってしまうタチの悪さ。これに対して誰も何も言わない。
私はすぐ立ち上がった。連名で署名活動をしようと思い実行した。みなさんも承諾してくれ次々サイン。ナースステーションに持って行きすぐに問題が解決した。
山頭火に出会う
入院していたこの頃、自由律俳句に出会った。私は他の人たちが参加していた作業療法には、参加しなかったので日中ヒマだった。
家に外泊して頭を丸めたときのこと。
「(頭をなでなでし)……ん?」
「私はだあれ?」
「あー、もしかして山頭火?」
「私は山頭火⁉」
「なんとなくそんな感じ」
なぜかそう感じた。
山頭火がどんな人間かをあまり知らなかった。40など歳を重ねてからも庵をかまえ、酒と友達とを愛し句作に励む。そんなイメージだった。
ここでおさらいする。
漂白の俳人・種田山頭火は、明治・大正・昭和時代を生きた人である。防府市の大地主の家に生まれるも9歳の時、母が自死。早稲田大学へ進学も中退。帰郷し同市で酒造業を始めた父を手伝いながら結婚、子どもをもうけ、この時に自由律俳句を提唱する。俳句雑誌『層雲』にて「山頭火」の俳号で投稿し、注目を集める。
しかし、1916(大正5)年、家業が破綻。妻子と熊本へ。その後離婚し、出家。1926(大正15)年、43歳の時に一人で行乞放浪(ぎょうこつほうろう)の旅へ出る。50歳近くで山口市小郡、湯田温泉に庵をかまえる。
1939(昭和14)年、四国へ。遍路を経て、松山市の「一草庵」に落ち着き、10月、57歳で亡くなる人生だった。(『平成の松下村塾』山口県ひとづくり財団ホームページより)
私も、あちこち放浪したではないか。
「私は確かに、山頭火⁉」
彼の代表作で私が特に好きになったのは二句。
まっすぐな道でさみしい
分け入っても分け入っても青い山
素人の感想として「まっすぐな…」は決まった道より、はずれた道の方が人生おもしろいよねと感じた。「分け入っても…」は繰り返しのリズムとダイナミックな自然が感じられた。
「うん」
「これなら自分も……」
私はこれなら自分でも何か作れるかも? と母や兄に頼んで、種田山頭火のマンガや本を読み、もっと彼について学ぶにつれて、自分でもその「自由律俳句」とやらをやってみようと思った。
自由に作ったらいいんでしょう? くらいに思って、他の入院患者がお絵かきや歌や料理などをする作業療法の時間に一人で病室にこもり、うんうんひねりながら考えてみた。
「自分の歩幅が見えてきた40歳」
まずできたのが、
救急車に乗って早くおうちへ帰りたい
普通は救急車に乗って病院へ行くが、私は早く家に帰りたいので、救急車に乗って他の車をどかせながら大名のごとく家に帰らせてくれ! という思いで作った。
後々師匠のO先生には、これは少し自由律俳句ではないねと言われ、??となり、自由に作ったのになんで? となった話題作である。
この他、毎朝6時に病室からホールへの扉が開いたときに、ロッカーに「ぬるいコーラ」を常備しているB君が一本くれて、それがおいしくて作った、
朝のコーラはぬるくてもうまい
これも駄作! と烙印(らくいん)。なんでですかね。私には分かりません。でもあきらめません。次です。
たばこを吸いたくなったら、ナースステーションで看護師から一本ずつ窓越しにもらうのだが(今は健康増進法上、病棟禁煙!)、たばこがたまたま窓に挟まったので作った、
窓 たばこ吸いたいときもある
これもダメ! 対照的に良かった句(佳句という)は、
自分の歩幅が見えてきた40歳
なのである。分かりますか? えーっ、では何が自由律なんですかあ? と思った方は、著書『わたしは山頭火⁉』のなかに私なりの答えを記しておいたので、そちらを読んでほしいのだが、ともあれこんなふうに、世間から隔絶された病院という環境で没頭できることが見つかったことで、私の回復はいささか早まったようなのである。
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