2月8日に投票・開示となる衆議院議員選挙の選挙戦で自民党議員から頻繁に口にされる言葉が「働いて働いて」だ。流行語大賞となったからではあるのだろうが、そこに違和感を覚える人は少なくないのではないか。
高橋あかりさんだけではなく、長時間労働、過重労働で死を選んだ人も少なくない中、本当に「働いて働いて働いて働いて、働いて」という言葉だけが、まるでキャッチフレーズのようにその言葉が繰り返される。それで本当に良いのだろうか。
「働いて働いて働いて」本当に世の中はよくなるのか。
まさにその疑問に答えるような一冊が、井上陽子さんの著書『第3の時間~デンマークで学んだ、短く働き、人生を豊かに変える時間術』(ダイヤモンド社)だ。
井上さんは読売新聞時代、それこそ休みもなく働いて働いて働きまくっていた。しかしデンマーク人の夫と結婚後、デンマークで暮らしてその価値観が大きく崩れたのだという。
ジャーナリストの浜田敬子さんは、この本を読んで付箋だらけになったという。
浜田さんは朝日新聞社に入社後、AERAの編集長をつとめ、現在フリーランスのジャーナリストとして活躍している。
ではデンマークで「短く働き、人生を豊かに変える」は日本でも可能なことなのか。浜田さんが井上さんに聞いた。前編では「4時に帰る」というデンマークの現状と、それでいて生産性の高い理由を伝える。
「付箋だらけの本」が示した反響――人々は何に苦しんでいるのか
浜田敬子(以下、浜田):『第3の時間〜デンマークで学んだ、短く働き、人生を豊かに変える時間術』の出版を機に日本に帰国されましたが、各地で講演やイベントが続きましたね。この大きな反響をどのように受けとめていますか。
井上陽子(以下、井上):一つはタイミングもあったと思います。高市首相の就任で政治の場でも「働き方」が争点化し、首相自身の「働いて✖️5」発言を機に議論が広がった時期と重なったという面は否定できません。
ただそれ以上に驚いたのは、トークイベントに来る方が本を「付箋だらけ」にして持ってくることです。いただくメールも熱量が高い。「みんな苦しかったんだな」と感じました。
浜田:若い参加者も多いそうですね。
井上:そうなんです。この本には私が長く働いてきた新聞社時代のことも書いていますが、新聞記者という極端な働き方が共感してもらえるのか不安でした。でも、あるイベントでは本来21時半終了のはずが、結局みなさん23時近くまで残って話し続けていました。
浜田:具体的には、どんな声がありましたか。
井上:印象的だったのは、ある方が「今34歳で、何歳までにこうしなきゃ、ああしなきゃ、と追い詰められていた。でもこれを読んで楽になった」と話した時に、周りで涙ぐむ人たちがいたことです。根っこにあるのは、「役に立っていないといけない」「価値を示し続けなければならない」という焦りだと思います。
“Have it all”が制度として成立している社会
浜田:井上さんもかつてそうでした?
井上:ええ。男性社会に入れてもらった以上、男性と同じように働くのは当然だと思っていました。でもそれだけでは足りない。男性より記事を書いて、「採用して良かった」と思わせ続けなければならない。新聞社時代にはそういうプレッシャーがあり、無茶な働き方になっていました。程度の差はあっても、同じ種類の圧力を抱えている人が多いのだと、本を出して改めて気づきました。
浜田:男女の管理職で残業時間を比べると、女性管理職のほうが長い、というデータもあります。一つは管理職になったからには「結果を出さなきゃ」「頑張りを見せなきゃ」というプレッシャーがあり、もう一つは、そもそも男性以上に働かないと管理職になれなかったという構造があると思います。
そこまで頑張って新聞社で特派員にまでなったのに、よく退職してデンマークに移住することを決断されましたね。
井上:最初は育児休業期間、夫の故郷のデンマークで過ごすつもりだったのですが、育休期間が終わるころ、退職を決心しました。けれど、当初は「いずれ(日本に)帰る」前提で、荷物も冷蔵庫もベッドも日本の倉庫に置いたままでした。
読売新聞社の人事担当からは「単身赴任という手がある」とも言われたんです。夫をデンマークに残して私と子どもだけが日本に戻るという選択肢ですね。でも子育てしながらの単身赴任は現実的ではなかったし、日本語が話せない夫が日本で働くという選択肢も取りづらかった。単純に私と夫の労働時間と、稼げる額を日本とデンマークで比べたら、どうしても夫がデンマークで働いた方が稼げて経済的に合理的だったので、私がデンマークに住むという選択をしました。
何より決断を後押ししたのは、「子どもが小さい時期に家族で一緒に過ごす」ということです。あの時間は、あとから取り戻せないですから。
浜田:そこに世代間の差も感じました。私は「好きな仕事を続ける以上、子どもと過ごす時間を犠牲にするのは仕方がない」と思っていました。先輩記者たちが親を地方から呼び寄せ、近くに住んでもらって子育てを丸ごと頼るか、自身のお給料をほとんどベビーシッター代に突っ込んで仕事を続ける姿を見ていましたから。
ただAERAの編集長時代に、10歳ほど下の世代から「私は自分たちの手で子どもを育てたいんです。その範囲で仕事もしたい」と言われたんです。衝撃でした。私たちの働き方が後輩世代を苦しめていたのかと。日本では企業も仕事と子育ての両立をしやすくするための支援制度は整えてきましたが、それでも両立の負担は相当個人に負わされてきたと感じます。
井上:アメリカでは以前“Have it all(すべてを手に入れる)”は幻想だ、という論文がハーバード・ビジネス・レビューに出て、私も留学時に読んで衝撃を受けました。アメリカで両立している人は、潤沢な資金があり、ベビーシッターなど他者の労働を買える層が多い。日本でも実家が近い、親が健康、経済力がある――そうした条件がないと難しいと感じます。
ところがデンマークでは普通に働く人が「仕事の満足」と「家庭の時間」を両立させている。私はそれを見て「ここは“Have it all”が、制度として成立している社会だ」と感じました。
「4時に帰る」の誤解――本質は“柔軟性”と“家族時間の確保”
井上:講演でも強調するのですが、「デンマークでは午後4時に帰る」と言うと、よく「仕事が4時で全部終わる」と誤解される。でも、普通にその後も働いています。本質は柔軟性です。デンマークの人がよく言うのが “As long as you deliver”――結果を出す限り、どこで何時間働いてもよい。夫もプロジェクト直前は夜10時まで働きます。でも「家族の時間をいったん確保する」ことが優先される。
午後4時に一度仕事を切り上げるのは、保育園が5時で閉まるという事情もあります。4時半に迎えに行くと子どもが2人しか残っていないこともあり、先生から「もう少し早く迎えに来てあげて」と言われます。
浜田:日本の職場は同調圧力が強く、時間で評価しがちです。働きたい人が働く自由はあっていいと思いますが、長時間働くことが評価されると、一気に帰れない空気が生まれます。
井上:デンマークは「時間が絶対」で、その時間内に仕事が終わらないのであれば、仕事の量を調整します。日本は逆で仕事の量が絶対で、その量をこなすために時間を捻出しようとする。その考え方が違うんですね。例えば中間管理職など一部の人に負担が偏っているなら、シフトと人員配置で設計すべきです。
浜田:先日、医療の世界で、印象的な働き方改革のニュースを見ました。日本は特に外科医の長時間労働が常態化し、若い医師が外科を敬遠するようになり、結果的に手術待ちが起きています。富山大学医学部の外科が「主治医制」をやめ、チーム制のシフト(8時間×3交代)にしたところ、女子学生の志望者が増えただけでなく、彼女たちが辞めずに働き続けていると。結果的に手術待ちが減り、他県からも患者が来て、医師の腕も上がり、経営も改善したというのです。非常に合理的な改革だと思いました。
短時間労働そのものが競争力を生むわけではない
井上:やろうと思えばできるんですよ。フィンランドやデンマークでも、医師は「時間が読める」仕事と見なされ、若い世代ほど女性が多い。医師側に多様性があることは、結果的に患者の利益になります。
もう一つ言えば、日本は「長く働いて稼ぐ自由」を語る前に、フルタイムで定時まで働けば普通に暮らせる所得水準が必要です。デンマークの平均賃金は高く、短時間働けば回る経済が成立している。
またもう一つよく誤解をされるのが、短時間労働そのものが競争力を生むわけではないということです。この数年、国際競争力ランキングで1位になることが多いデンマークですが、2000年代以降、再生エネルギーやIT、製薬産業など知識集約型産業に移行してきました。競争力の源泉は産業構造の転換にあるのです。
週37時間労働になったのは1990年前後で、当時のデンマークは決して豊かではありませんでした。造船産業などでアジアに負け、住宅にシャワーがない物件も多かったそうです。そこから労働市場改革(失業給付の条件としてのリスキリングなど)を進めると同時に、産業転換も進めてきたのです。
日本が合理的に変われないのは、成功体験が強すぎることと、「変える力」が弱いことだと思います。日本が悪化したというより、他国が改善してきたのです。その差が国際競争力などの順位にも表れているのだと思います。
浜田:デンマークはレイオフも日常的に行われ、労働市場の流動性が高い。常に勉強して新しい知識や技術を身につけなければならない。普通なら苦しくなるはずです。
井上:苦しいからこそ、仕事と自分の距離を取るのだと思います。本の中に出てくる解雇されたママ友が言ったように、「仕事=自分」というアイデンティティだと厳しすぎるのです。デンマークでは「肩書きは明日なくなるかもしれない」という感覚がある。だから「何をしているか」ではなく「人としてどう付き合うか」が重視されます。
浜田:自身の市場価値を意識しつつ、同時に仕事以外の時間を当然の権利として守る。この両立がデンマークの特徴ですね。
井上:1880年代のスローガン「8・8・8(労働8時間、余暇8時間、睡眠8時間)」の文化が根っこにはあります。今、「8・8・8」という言葉自体は知らなくても、「仕事がすべてではない」という価値観は浸透しています。
学校の保護者会も、コーヒーとお菓子を持ち寄って頻繁に集まり、課題をみんなで話し合います。例えば子どもの誕生日会も季節ごとに誕生日の子をグループ分けし、親同士で分担してイベントを企画する。平日の午後、地下鉄で子どもたちを連れてトランポリン施設に行き、2時間遊ばせてケーキとプレゼント交換。こういうことは、時間の余白がないとできません。
◇このように語る井上さんも、デンマークに暮らした当初は「私は別」だと思っていたという。では何をきっかけにマインドセットされたのだろうか。
後編「試験の間も仕事の電話がないか心配だった…長時間労働を続けて夫婦関係に布上が生じた女性の気づき」では、井上さんが長時間労働で家族が崩壊寸前になった体験を伝える。