労務相談やハラスメント対応を主力業務として扱っている社労士である私のもとには、企業の想定を超えたトラブルが舞い込んできます。ときに、それは企業秩序や職場の人間関係とは無関係に見える、従業員の“私生活”に端を発する問題です。
今回は、労働者が休日に痴漢行為で現行犯逮捕・勾留されたというケースを取り上げます。本人は否認をしており、まだ起訴もされていない状況ですが、このような状況で会社はどのように動くべきか。そして私生活上の非行が、どこまで懲戒の対象になり得るのか。実務上のポイントを判例や制度の観点から解説していきます。
なお、このケースは個人の特定を防ぐため、複数のエピソードを組み合わせて再構成しています。
【前編】『優秀な社員が「痴漢」でまさかの逮捕…「保険業界で起きた」処分の正しい対応とは【労務問題】』よりつづく
懲戒解雇は「重すぎる」と見なされる場合も
Aさんは、あくまで私生活中の行為で勾留されています。被疑事実を否認しており、起訴もされていない状況。報道も現時点ではされておらず、会社名が公になる可能性も現時点ではさほど高いものではないと思われます。
また、Aさんについて過去に懲戒歴があるわけでもなく、同様の非行が繰り返されているわけでもありません。こうした状況では、懲戒解雇は「重すぎる」処分と見なされる可能性があります。企業秩序への影響や信用毀損が客観的に認められない限り、解雇は懲戒権の濫用と判断される恐れが高いでしょう。
むしろ、一定期間欠勤が続くことになる場合には、「欠勤対応」や「事実確認のうえでの休職・自宅待機措置」を先行し、状況の推移を慎重に見極めるべきです。事実が確定した段階で、本人の説明も踏まえて対応を検討すればよいのです。
Aさんのように容疑を否認している場合、懲戒処分を急げば、後に冤罪であった場合の名誉回復や、労働契約上のトラブルにつながりかねません。そこで、もう一つの選択肢として、会社がとりうる対応のひとつに「退職勧奨」があります。
退職勧奨とは、懲戒処分のように一方的な措置ではなく、本人の意思を尊重しつつ、会社としての信頼維持や組織運営上の理由を丁寧に説明したうえで、自主的な退職を打診する手法です。実務上も、私生活上の非行が発覚した場面で、本人が今後の勤務に支障を感じることを踏まえ、穏便な合意退職を選ぶケースは少なくありません。
もちろん、これはあくまで「提案」であり、本人の意向を無視して強引に退職に導くことは許されません。圧迫的・誘導的な言い回しや、不当な示唆を避けることは当然として、退職の意思を冷静に検討してもらえるよう、一定の時間的猶予や選択肢の提示が重要になります。会社としては「本人の選択を尊重しつつも、今後の働き方について話し合いたい」というスタンスで臨む必要があります。
なお、痴漢に限らず、私生活上で犯罪行為が発覚した場合も同様です。たとえば、飲酒運転、盗撮、暴行、軽微な窃盗など、刑事罰に該当する行為であっても、企業秩序への影響や行為の悪質性、報道の有無などによって懲戒の可否や処分の軽重が判断されます。
具体的には、企業の社会的責任が重い業種や、企業としてコンプライアンス方針を明確に掲げている場合には、倫理面の乱れが強く問われることになります。たとえば、金融機関や教育機関、公務員などでは、私生活上の不品行であっても企業の信用失墜を理由に処分が有効とされた例もあります。
加えて、会社としての説明責任や、社内外ステークホルダーに対する信頼の維持といった観点からも、単に処分を行うか否かではなく、「透明性のある手続き」や「就業規則・コンプライアンス方針との整合性」をもって対応することが求められます。
それでも退職を促した経営者側の理由
F川さんは、Aさんを解雇することは心理的には抵抗があるようでした。しかし、共同代表を務める妻は今後のトラブルを懸念しAさんの籍を自社に置き続けることに不安がありました。
私からはどちらにもリスクは一定存在することをお伝えし、勤務し続けてもらうことも選択肢としてご提案はしましたが、会社としてはAさんに退職を依頼したいということになりました。
事件でAさんが痴漢行為を認めていないこと、店舗での行為であれば目撃者もいるなかで現行犯で逮捕されていること、認めていない以上被害を受けた相手と示談が成立するかどうかが不透明な状況であることなどがその判断の理由でした。
また生命保険の営業は顧客の自宅に伺うこともあり、トラブルや解約につながりかねないリスクがあるというのが将来的な懸念としてもありました。
F川さんはAさんへ退職干渉を促す手紙を書き、本人へ退職届を差し入れることにしました。退職金は規定より少し上乗せして支払うこととして、退職届にサインをもらうことにしたのです。
差し入れにあたっては事前に警察へ電話したうえで持参しました。本人と直接会話をする時間もあったそうで、Aさんは悔しそうにしていたものの、淡々と「わかりました」とサインに応じたということでした。
「思ったより素直に応じて……正直、もっとごねるかと思いました」
F川さんは少しだけ険の取れた顔でそう言われました。
「私生活の自由と企業秩序の境界をどう引くか」
社員が逮捕される、というトラブルはある日突然起こります。もちろん冤罪である可能性もありますが、そうではない可能性も踏まえ、会社としては突発的なトラブルにどのように対処すればいいのかを考えておく必要があります。
企業経営者にとって、こうした私生活上の非行が引き起こすトラブルは他人事ではありません。むしろ、どの会社にも起こり得るリスクであり、いかに事前に備えておくかが組織の安定性を左右します。
そのため、日ごろから社労士や弁護士などとコンタクトを取れる状態にしておくことをお勧めします。こうしたトラブルは、表面化したときにはすでに深刻なリスクに発展していることが多く、対応を誤れば、経営者自身がコンプライアンスや管理責任を問われる場面にもつながりかねません。
トラブルは緊急な場合も、夜間や休日に起こる場合もあります。そのような場合でも相談できる関係性を作っておくことは経営者自身を守る意味でも、企業のレピュテーションを守る意味でも、重要だといえるでしょう。
Aさんのケースでは、懲戒の是非そのものよりも、これからどうなるのか? という見通しが立たないことがF川さんの不安の元でした。もちろん、社労士が対応できる範囲に限りがあるので、早期に弁護士に相談できればより安全です。
こうした場合は場面場面でそれぞれの専門家がチームとなって動くことができれば、適切な方法を模索することもできます。そのような意味でも、日ごろから専門家とつながっておくことは大切なのです。
また、今回のような事例を通して、企業が学ぶべきは「私生活の自由と企業秩序の境界をどう引くか」という問いかけです。従業員が企業外で何らかのトラブルに巻き込まれたとき、何が懲戒の対象となり得るのか、就業規則や社内の運用も含めて、改めて点検しておくことが大切です。
労務リスクは、往々にして「職場の外」からもやってきます。その現実に対して、感情だけではなく、規律と事実に基づいて判断していくことが、今後ますます求められていくのではないでしょうか。
…労働環境を取り巻く状況はさまざまです。つづく<適応障害で休職した「モンスター社員」が虚言暴走…復帰交渉で言い放った「最大級のわがまま」>でもそんな実例をもとに解決策をお伝えしています。