新進気鋭の美学者・難波優輝さんが、「何者か」になるための物語で溢れた現代を批判する『物語化批判の哲学』。
フィクションとしての物語を愛している。それゆえに、人生も世界も、物語ではないと断言する難波さんの今回のお相手は、2024年3月に『たまたま、この世界に生まれて』(晶文社)を上梓した文学研究者・須藤輝彦さん。
代表作『存在の耐えられない軽さ』で知られる作家ミラン・クンデラのご研究を中心に、文学を通じて「運命」、そして「物語」について広く深く考えてこられた須藤さんと、人生を運命的に、あるいは物語的に描くことの意味ーー面白さ、危うさ、厄介さーーを探究していきます。
おふたりによる対談を、ぜひお楽しみください。
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*本記事は、2025年8月27日にSPBS本店様にて開催されましたトークイベント「〈何者か〉になれない時代に、どう生きるか――人生の物語化をめぐって」の一部を抜粋・編集したものです。
【人生は遊び。プロジェクト】須藤輝彦さん篇 もくじ
日常の延長線上で「崇高」について考える
難波 自分が須藤さんのことを聞きたすぎて、今日はその話ばかりになってしまいそうです笑
須藤 いやいやいやいや、『物語化批判の哲学』の話もした方がいい笑
難波 笑笑 そうですよね。何か聞いてください笑
須藤 すでにアカウントは閉鎖されていると思うんですが、難波さんはつい最近X上で「ギャンブル文学論」について言及されていましたよね。奇しくも、ぼくが『物語化批判の哲学』を読んで一番面白いと思ったのはギャンブルについての章なんです。
難波 それは嬉しい。
須藤 しかもさらに面白いと思ったのは、難波さんご自身はギャンブルをしない。それどころかギャンブルがお嫌いだということ。
難波 めちゃくちゃ嫌いですね。
須藤 そこが非常に面白いと思った。ぼくもギャンブルは全然しないんですよ。多分、嫌いに近いと思います。ぼく自身は、ギャンブルって〈遊び〉じゃないんじゃないか、という気がするんですよね。なんというか……ギャンブルって、すごく「真面目」じゃないですか。
難波 真面目ですね。
須藤 そう。この本は、第一部が「物語化批判」で、第二部が物語のオルタナティブとして、ゲームとかギャンブルとかおもちゃとかパズルとか、いろいろな〈遊び〉のかたちを提案していくという建て付けです。ただ、ギャンブルはちょっと違うんじゃないかという気持ちなんです。「崇高」という概念が、出てきますよね。
難波 はい。
須藤 でもぼく、「崇高」ってあまり好きじゃないんです。好きじゃないというか……それこそみんな持ち上げすぎだろうという気がしている。でも『物語化批判の哲学』の崇高論は、非常にしっくりくるものがあって。
難波 みんな崇高論を持ち上げすぎ、というのはどういうことなんでしょう……?
須藤 ぼく自身がかなり散文志向で、非超越的な人間だからかもしれないですが、さまざまなものを論じるさいに、みんな「超越的なもの」に頼りすぎだろうという思いがどこかにあるんです。美の概念にしても美学というジャンルにしても、ある意味で崇高という概念を中心に発展してきたところがありますよね。カントの崇高論を読むと、そりゃぼくも「いやあ、頭いいなあ」とは思うんですが、そのいっぽうで、「そればっかりじゃあな」という気もしていて。
だけどこの本に出てくる「崇高」は、腹に落ちるものがあった。要は、ギャンブルは実際どこにでもあるし、誰にでもできる。すごく日常的なものの延長線上で、「崇高」を捉えておられる感じがして、腑に落ちたんだと思います。
難波 確かに、おっしゃっていただように、カント的な、あるいはリオタール的な「崇高」って、セカイ系的で革命的で超越的な、「この世俗」のしょうもないもの、ではなくて、神とか絶対者とか、そうしたものの延長線上にあるように見えるかもしれません。この本の「崇高」概念が、そうしたものとはまた別の話をしているというのは、はじめてご指摘いただきました。全然意識していませんでしたが、そうかもしれません。
一撃で世界は変わらない
難波自分の中ではむしろ、崇高は「どこにでもある分からなさ」のことぐらいに捉えているんです。分からないことって、面白い。でも、それが世界を変えるかどうかは、これまたちょっとよく分からないところがある。それこそ、ガチャガチャやホストクラブでの消費の文脈で、「一撃」という言い方があります。ガチャに30万円を注ぎ込むとか、ホストに数百万円をポンっと払って、ランキングで1位にしてあげるとか。
でも自分は、一撃で世界は変わらへんやろ、と思う。共産主義的な革命、あるいは右派的革命でもいいですが、「革命」が好きというのは、実はたんにギャンブルが好きなだけで、ほんとうに世界を変える気はないのではないかと。自分自身はむしろ、ある種の保守主義の立場で、世界を変えるためにはちょっとずつ変えるしかないと思っているんです。一撃で世界を変えようとしたら、絶対に人がたくさん死んでしまうから。
須藤 それはそうですよね。
難波 そうした「一撃性」とどういうふうに向き合うのかという意味で、ギャンブルは常に気になっています。自分がギャンブルを好きではないのは、一撃遊びだから。たとえばクンデラは一撃性については、どういうふうな思いを抱えていたんですか。
須藤 その文脈で言うと、クンデラは完全に難波さん寄りというか……。彼はもともと共産党員だったので、革命する側にいたわけです。そうした過去を背負って、『生は彼方に』という小説を書いた。
『生は彼方に』は、それこそ「何者かになりたい」批判でもあるし、革命批判でもあるし、「青春」的なものへの批判でもある。主人公は、自分には詩人としての特別な才能があり、その才能で世界を変えられるのだと思っている人物。それがいかに視野が狭さや感情に流された認識だったかを、その主人公の描写を通して、作者であるミラン・クンデラがある種の自己批判をしていく本なんです。革命と青春は同じようなものだと、熱くなって周りが見えなくなる心性みたいなものをざくっと批判しているのがクンデラ先生です笑
難波 面白い。
難波優輝(なんば・ゆうき)|1994年、兵庫県生まれ。美学者、会社員。立命館大学衣笠総合研究機構ゲーム研究センター客員研究員、慶應義塾大学サイエンスフィクション研究開発実装センター訪問研究員。神戸大学大学院人文学研究科博士前期課程修了。専門は分析美学とポピュラーカルチャーの哲学。著書に『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』(講談社現代新書)、『SFプロトタイピング』(共著、早川書房)、『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版)など。
須藤輝彦(すどう・てるひこ)|1988年、東京生まれの神戸育ち。東京大学助教。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。ヴェネツィア国際大学、カレル大学、ソルボンヌ大学に学ぶ。ミラン・クンデラを中心に、チェコと中欧、啓蒙期の文学や思想に関心がある。著書に『たまたま、この世界に生まれて──ミラン・クンデラと運命』(晶文社)、共訳書にアンナ・ツィマ『シブヤで目覚めて』など。ノートルダム火災についてのルポルタージュ(集英社新書プラス)、『文学+』WEB版文芸批評時評、『文學界』新人小説月評のほか、現在は『群像』で「運命の文学史 終わりから始まる物語」を連載中。X(旧Twitter):@t_pseudo。
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