岡田繁幸は、「マイネル軍団の総帥」として、あるいは地方競馬から日本ダービーを目指したコスモバルクの馬主(厳密にはその夫)として、はたまた競馬番組の解説者として、多種多様な活躍でファンから敬愛され、2021年に亡くなった。
その岡田を長年取材してきた河村清明の『相馬眼が見た夢 岡田繁幸がサンデーサイレンスに刃向かった日々』(講談社)が10月に刊行された。本書にはサイレンススズカなど、岡田と縁のある数多の名馬が登場する。
果たして岡田の目にはそれら名馬はどう映ったのか、岡田の夢とは何だったのか。
前編記事『なぜ岡田繁幸総帥はミホノブルボンとライスシャワーの〈一点買い〉の万馬券を買えたのか…「僕にはわかる」と豪語した「相馬眼」の真髄』より続く。
宿命のライバル、サンデーとイージーゴア
本書を手にしたとき、打倒・社台グループに燃える岡田の情念が描かれるノンフィクションかしらと思ったが、読み終える頃には、これは岡田繁幸の評伝であると同時に、現代競馬の礎を作り上げた社台の吉田善哉(吉田照哉の父)への畏敬とサンデーサイレンスへの畏怖の書であるとの思いにいたった。吉田善哉については吉川良『血と知と地』を読んでもらうことにして、サンデーサイレンスについて軽く説明をしたい。
簡単にサンデーサイレンスの略歴を記せば、86年に米国ケンタッキー州に生まれ、89年に米国二冠馬となった後、91年より種牡馬として日本で活躍、13年連続リーディングサイヤーに輝く……となる。
これほどの名馬も、レイ・ポーリック『運命に噛みついた馬』によると、仔馬時代は「見るのも不愉快な馬」と蔑まれ、競走馬引退後は種牡馬として「誰も欲しがらない馬」の評価であった。そんな馬を日本人(吉田善哉)が買うと耳にした米国の専門家たちは、「日本人のブリーダーが莫大なカネを積んで、とても成功しそうにない母系から生まれたヘイロー産駒を買っていった」と嘲笑したという。
その背景には、米国の競馬事情がある。
「アメリカでは2歳時に安かった馬は、種牡馬として人気が出ない。(略)ライバルのイージーゴアに競走成績で優りながら、種牡馬として評価されなかったのはこうした理由があります」(吉田照哉・談。吉沢譲治『最強馬伝説』より)
二流の血統であるうえ、脚の形状がいびつであるなど見栄えしない馬体であることから買い手がつかなかった2歳時のサンデーサイレンスに対し、吉田の言葉に出てくるイージーゴアは良血で、あふれんばかりの筋肉を誇る体型であった。(この体型については後に触れる)
この同世代の2頭は宿命のライバルとなる。さながら名門と異端だ。2018年の夏の甲子園決勝、大阪桐蔭vs金足農業のような関係ではあるが、こちらは4度対決し、サンデーサイレンスが3勝。とりわけプリークネスSでの最後の直線で二頭が並ぶや、サンデーはイージーゴアに噛みつかんばかりの闘志を見せ、ハナ差で競り勝った姿は語り草となっている。
引退後、イージーゴアは一流血統の馬にふさわしく、名門牧場クレイボーンファーム(ニジンスキーやミスタープロスペクターなどの繋養先として知られる)で種牡馬入りを果たす。
吉田善哉はなぜ二流血統のサンデーを買ったのか
対してサンデーサイレンスはどうか。もともと所有者と20年来のつきあいのあった吉田善哉が購入の意向を示していたが、所有者は「ケンタッキーの馬」であるとして、手放そうとしなかった。だが所有者が種付けのシンジケートを組もうとしたところ、申込者はわずか3人しか現れなかったという。結局、吉田が所有者と家族ぐるみの交流を重ね、時間をかけて説得を続けていたこともあって、日本での種牡馬入りを実現するのであった(『運命に噛みついた馬』)。
それにしても、米国ではまるで見向きもされなかったサンデーサイレンスを、吉田はなぜ買ったのか。長男の吉田照哉はこう語っている。
「母系が貧弱だから、はっきりいって血統は二流です。(略)血統には目をつぶって競走成績を重視して買ってくるのがうちの方針」(吉沢譲治『最強馬伝説』)。なにしろ、父ヘイローはともかく、母馬の父アンダースタンディングはまったくの無名で、おまけに牝系は6代さかのぼらなければ活躍馬がいない有り様であった(吉沢譲治『競馬の血統学』)。それでも吉田には「第一が競走成績、第二が馬体で、血統にはこだわらない」との信念があった(吉沢『最強馬伝説』)。
こうして日本で種牡馬になると、94年に初年度産駒がデビュー。すると次々と勝ち上がっていき、その様をスポーツ紙は「サンデーサイレンス旋風」と評した。その風は日本競馬界の風景をそっくり変えていった。12年間の種牡馬生活での産駒の血統登録は1,514頭、そのうち1,067頭が1勝以上をし、148頭が重賞勝ち馬となった(JBISのサイトより)。こうして誕生した名馬がさらに種牡馬になり、サンデーサイレンス系が確立されていく。
岡田繁幸もサンデーによって競走馬観が変わった
岡田繁幸もまた、サンデーサイレンスによって競走馬観を変えることになる。
サイレンススズカに惚れ込んだ岡田であるが、当初は、種牡馬サンデーサイレンスへの評価は悲観的なものであった。「あんなクタクタじゃ、いい仔は出ません。厳しいですよ」と、サンデーサイレンスの柔らかな筋肉や脚の形状を気にしてのことであった。ところが実際に産駒がデビューすると、岡田はその見立てを全撤回する。
サンデーサイレンス産駒登場以前、筋肉の量が豊富であることが、よい馬の条件であった。だが、これまでに記したようにサンデーサイレンスの仔は、あまり筋肉がつかずにいた。それが、とにもかくにも走ったのだ。
先にイージーゴアとサンデーサイレンスが、「筋肉の量が豊富な馬」―「だらしなく見える馬」との対称的な関係にあったことを記した。ところが後者については「無駄な筋肉のつかない柔らかな体質の馬」へと評価が変容したのだ。そして、岡田は後者の、とりわけサンデーサイレンスの体質をしっかりと受け継いだサイレンススズカに魅せられていくのだった。
岡田のもう一つの夢
馬を見る目が変わったのは、もちろん岡田ばかりでない。前掲の『運命に噛みついた馬』に社台グループの関係者が語る、面白い挿話がある。父の名前を知らされずに仔馬を見た者は、いびつな脚を見て酷評を始めるが、血統を聞かされると「なんだ、早く言ってくれよ!」となるのだという。一般には大きな欠点となる特徴も、サンデーサイレンス産駒においては偉大なる父の子と証となったのだ。
サンデーサイレンスの子孫はいまや世界を席巻している。
米国には居場所のなかったサンデーサイレンスは、競馬の辺境の地、日本に流れてきた。その子供であるディープインパクトは世界最高峰の凱旋門賞2着に、その系統のフォーエバーヤングは米国最高峰のブリーダーズCクラシックを制した。見事な復讐劇である。
この馬を日本に連れてくることに情熱をそそいだ吉田善哉は産駒がデビューする前年に死去するが、生前、こんなことを述べている。「そのうち、何十年したって、日本のあちこちでサンデーの血が走るわけだね。わたしは生まれ変われないが、わたしのね、馬屋の意地は生まれ変われるんだ」(吉川良『血と知と地』)。
ひとりの人間がその一生で追いかけるには、競馬という夢はあまりにも途方もないものなのかもしれない。
岡田には2つの夢があった。日本ダービーを勝つこと、そしてサンデーサイレンスに匹敵する馬を手に入れること。けれども最後まで日本ダービーはもとより他のクラシック競走を勝つことが出来なかった。
だが岡田の没後、彼が遺した馬がオークスを制覇。同様に岡田一代では果たせなかったもうひとつの夢も、彼が遺した牧場や人々が叶える日が来るかもしれない。そんな物語の夢を抱くことができるのが競馬のロマンというものだろう。――あるとき突然、無名の牝馬から生まれたサンデーサイレンスがそうであるように。
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