「上司のひと言をさらっと聞き流せない」「ゆらいでしまう自分を変えたい」「気づけば自己否定でまとめてしまう自分がいる……」――。
こうした状態は「いのちの泉が枯れている」場合が多いと著者の稲葉俊郎さんは言います。稲葉さんは西洋医学だけでなく、東洋医学や代替医療、心理学も修めた医師です。
治療現場や旅先での出会い、温泉、演劇、アート、本などを通して、「いのちの力」がよみがえる方法を、著書『肯定からあなたの物語は始まる 視点が変わるヒント』より抜粋してお届けします。
解毒する
いのちは 肯定する力
ただ
世の中には 毒もいっぱい
誰かの話を聞いていると、そこには大切な人生の断片がある。私は、ふと語られる人生のお話を、小説や昔話で語られるような物語として受け取りながら聞いている。断片はひとつひとつの星であり、物語全体として受け取ってみると星座のような形が浮かび上がってくる。
武勇伝、自慢話、出世話などの楽しい話題もあれば、失敗談や悲劇的な話、身の上話などの悲しい話題もある。どんな話の内容であっても、誰もが出来事にそのときの感情を交えながら、固有の物語を織りなすように語っているものだ。
話を聞く。言葉を受け取るだけでも、話し手はすっきりする。聞き手になることはそれだけでケアとも言える。ときには、聞くだけで終わるのではなく、物語の底に流れる問題の本質を共に探すこともある。
人生とは不思議なもので、乗り越えるべき課題は偶然の出会いやトラブルによって現れてきたりする。手を替え品を替えて。弱点は死角となり、本人には見えない場所だったりするので気づきにくい。たとえば、背中は服を脱いで鏡に映して意識的に見ようと思わない限り見えないものだ。物語を誰かが聞くことで他者の視点が入り、新しい視点が導入される。そのことで、本人が閉じ込められていた悲劇の物語に光が差し込み新しい展開が生まれてくることがある。
ここ数年、聞き手となる中で気になっていることがある。それは、失敗をすぐに自己否定に結びつけてしまう思考回路だ。
「仕事がうまくいかない。仕事がうまくできない自分はダメなんだ。そもそも、この仕事を選んでいる自分がダメなんだ」など、穴に落ちていくように必ず同じ結論へ到達してしまう。失敗に遭遇したとき、過去を振り返ることは誰にでも起こる。「失敗を糧にして次にどうつなげようか」と未来に視点が向かうならばいいと思う。ただ、失敗を思い返し、反省した結果、「あぁ、だから自分はダメなんだ」「自分はもう生きている価値がない」と、自分を否定する方向(自己否定)に考えを結びつけることは賛成できない。考え方が間違った方向へ向かっているのではないかと危惧する。
自己否定に陥らない場合でも、くるっと刃を誰かに向けて他者否定(あの人が悪かったのだ)の結論に至ることも建設的な方向とは言えない。
私は自己否定の結論へと着地する思考方法を、意識的に切断することを提案している。なぜなら医療現場での多くの困りごとをサポートしながら、「肯定からしか物語は始まらない」と切実に考えているからだ。
では、なぜそうした自己否定の発想法に至ってしまったのだろうか。それは無意識に学習した考え方の癖のようなものでもある。なぜそんな癖がついてしまうのか。原因はひとつではないだろうが、子どものときや若いとき、まだ社会に出る前に学習した考え方がその後も染みついてしまっている場合がほとんどだ。
自分を痛めつける思考パターンを意識的に手離してみることも「アンラーニング」と言える。聖書の中に出てくる「禁断の果実」は善悪の知識の木の果実であり、「知恵の実」というメタファー(隠喩)で登場する。「知ること」は禁断の果実でもあるのだ。何かを知ることはそれが自分の心の中に深く入り込んでくることでもある。知ることで情報は心の世界に情報の巣を作る。知恵の実はいいものを生み出す場合もあるが、悪いものを生み出す場合もある。つまり、得たもの、知ったことも、ときには、排除し、捨て去ることも大事なのだ。
心の中の巣には育てるべき巣と、壊して廃棄すべきな巣があり、分別を定期的に行う必要がある。この後で説明するマインドフルネスが示すように、正しく心を使えば、現実も正しい方向へ展開していくのだから。
同じ体験をしても、ある人は「よし! これを活かそう」と考えるし、ある人は「もうダメだ、自分は生きている価値がない」と考えてしまう。正反対とも思える考えや対応は、どこかで学習したものだと思う。
それは子ども時代に生き抜くためにいのち懸けでとった戦略であるとしたら、なかなか変えにくい。過去を振り返ることは大事だが、その結論が必ず自己否定の場所に落ち着いてしまうのであれば、違う場所に意識的に着地しようと考えてほしい。
自分が自分の薬を作ることを考える
「肯定からあなたの物語は始まる 視点が変わるヒント④」で病気のことを学ぶのは大事だが、健康について学ぶことも大事だと述べた。病気を学ぶ病気学に対して、健康学という言葉で健康という概念を深めてほしいと思う。健康学の観点で考えると健康を保つためには「防御する」ことも大切だ。無防備な体内に何を取り入れることが適切なのか、体や心の内部に不要なものが侵入してこないよう身を守るために。
あなたがお城の門番だとする。門番は門を常に開放しすべてを中に招き入れることはないはずだ。中に入ったものから攻撃を受けないように、門の中に招き入れていいかどうかと判断するのが門番の役目なのだから。食べるものも、自分の体にあうものかどうか、少しでも健康に寄与するものかどうか、しっかりと体の声を聴いて選ぶ必要がある。
食べ物のようにわかりやすいものばかりではなく、受け取る情報も同じだ。テレビやスマホ、ネットで見た情報を見境なく門を開けて内部へ招き入れてしまうと、その情報は毒を含んでいることすらある。少しずつ致死量に至る毒を飲んでいる場合もあるだろう。もちろん、毒をもって毒を制することがあるのも事実だが、解毒する力がなければ、毒となる情報の選別には注意が必要だ。一度取り入れたものは容易に排出できない。
自分にとって健康になるもの、豊かになるものは何だろうか。門番の立場に立って冷静に考えてみる。招くべきお客さんは歓迎し、ためにならない客をしっかり断ることも大切だ。門番は自分しかいない。芸術や音楽、詩や文学を意識的に門の中に招待してみる。心は滋養を得ることで、余白が生まれる。
適切な選択を果たすためにも、明晰な意識を持つ。明晰な意識で判断するマインドフルネスのトレーニングは、心の使い方として重要な技術とも言える。
捨て去ること、手離すこと、忘れること、アンラーニングすること。これらはすべて自己治療の一環とも言える。困ったら病院へ、とすべてをお任せするのではなく、まず自分が自分の薬を作ることを考える。簡単にできる自己治療として、呼吸、眠り、お風呂(温泉)をあげたい。
体や心がのびのびと活動できないとき、体は頭(脳)にコントロールされている。頭が独裁政治のようにして主導権を握っている。頭優位になっているとき、あなたの呼吸はきっと浅く速くなっていることだろう。浅く速い呼吸に気づいたら、深くゆっくりとした呼吸へと意識的に切り替えてほしい。
「はぁーっ」と小さい声を出しながら長く息を吐く。息を吐き切ったら、鼻から息は自動的に入ってくる。そこでまた「はぁーっ」と小さく声を出しながら、息を吐き切る。こうして深く長い呼吸をくり返していると、時間がゆっくりと流れる感じがするはずだ。
主観的に感じられる時間は(客観的な時計の針の時間ではなく)、あなたの呼吸の長さと関係がある。深く長い息をすれば、あなたの中にゆっくりとした時間が流れる。ゆるやかに流れる時間の中に身を浸すようにしていると、反射的にものごとをジャッジしなくなる。時間を節約するために無意識にラベルづけしていた自分の中にある色眼鏡に気づくだろう。実は、これはマインドフルネス瞑想が目指そうとしている状態でもある。
マインドフルネスとは、仏教の教えで大切にするべき八つの正しい道があり、八正道(正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)のひとつの「正念」の英訳がright mindfulnessであることに由来する。正念とは正しい心の使い方のことだ。「念」という漢字が「今」+「心」と表現されるように、「今」この瞬間に「心」の状態を保つ。未来や過去を思い煩うのではなく。マインドフルネスでは、「今この瞬間」の体験に意識を向け、「評価せず」囚われのない状態でただ観る心の状態を保つ練習をする。
なぜなら、人間の脳は常に何かしらのフィルターを介してものごとを見る癖がついているため、偏見や固定観念という色眼鏡で自分自身を縛っていることが多いからだ。自己否定という考え方も、気づかずに獲得した色眼鏡でもある。
色眼鏡を外す練習をする。善や悪、プラスやマイナスなどの評価をせずに観察する視点を取り戻す。すべてのものごとには陰と陽とが共に内在している。東洋医学でも「太極図」と呼ばれるシンボルに集約されて示されている。陽の中に陰の兆しがあり、陰の中にも陽の兆しがあり、陽と陰とが余剰と欠乏を補いあうようにしている。
次に「眠り」をとおして考えてみたい。眠りは日々のことでありながら軽視されている最たるものだ。私は眠りこそが人生のメイン活動であると思う。なぜなら生命活動が戻るべきホームポジションであり、いのちの居場所に戻る神聖な時間であるからだ。慌ただしい日々の暮らしの中で、眠りの時間にやっと純粋なる自分自身のいのちの居場所と時間へ戻ることができる。
「あなた」は外のどこを探しても見つからない。インターネットで検索しても自分のことは永遠にわからない。内部にあるいのちこそが、あなたそのものだから。
起きているときは外部に意識が向かうあまりに、外界への適応に熱心となる。感覚は外に向けて開いているし、脳も外界を検索することに長けている。だからこそ盲点となる内部のいのちの居場所を忘れてしまうのだ。社会に適応することに熱心になるあまりに、寄る辺となる自分自身への適応不全に陥っている。眠りではなく起きているときは自分を見失っている時間であるとも言える。
「その人がその人らしく」あるためには、立ち止まり、目をつぶり、「眠る」ことがいのちの仕組みに内蔵されている。普段の考えを逆にして「今日はよい眠りのために一日を過ごそう」と考えてみてほしい。いのちを中心にした生活を意識することが必要だ。
よい眠りのためにはお風呂や温泉という体を開く準備もお薦めしたい。私は入浴して自然に起こる「マインドフルネス」を「マインド風呂ネス」と呼んでいる。お風呂に入るだけで、おのずから瞑想状態に近くなる。何も考えず、今この瞬間の時間を味わうように。全身を包み込む温かい水は、疲れた心身を癒し、あなたの内部にあるいのちの世界を活性化させてくれるだろう。
ときには温泉に足を運んでほしい。探せば都市部でも温泉はあるし、環境を変えることで気持ちは切り替わり、転地療養の効果もある。難しい瞑想法や呼吸法を習うこともいいが、良質な温泉に身を委ねることで、おのずから瞑想状態に誘われる。
温泉は地球が生み出した火と水が融合した浄化の力そのものである。地球のいのちを一対一になり全身で受け取ってほしい。そうしたゆったりした贅沢な時間こそ、外向きの仮面が外せなくなって苦しんでいる不自然な自分と、内側で輝くいのちそのものの自分とが交じりあう出会いの場となる。
あなたにとって「自分が自分らしく」あれる言葉や本、芸術や音楽、人間関係や環境など、いろいろと探求してみてはどうだろうか。自分の薬を見つけたら、誰かと共有することで自分の理解がより深まるだろう。病や欠点すらも深めていくことで、あなただけの個性的な薬が見つかる。それはいのちを深める神聖な行為だ。いのちは、あなたを絶対的に肯定してくれている。そのために、あなたは生まれてきた。