かつては「グルジア」の名で呼ばれていた東欧コーカサスの国・ジョージア。世界最古のワインの名産地として知られる一方、映画もまた独自の発展を遂げたことで知られ、その作品群は世界中のファンを魅了してきた。
「ジョージア映画祭」を主宰するはらだたけひで氏は、ジョージア映画は「ポリフォニー(多声音楽)のように多彩な豊かさを内包し、古代から伝わるワインのように芳醇である」と書いた。じっさいにジョージア映画に触れた観客は、その言葉の正しさを実感できるだろう。ミュージカルの国民的作品『ケトとコテ』(1948、ヴァフタング・タブリアシュヴィリ+シャルヴァ・ゲデヴァニシュヴィリ)や、ジョージアの代表的画家の生涯を描いた『ピロスマニ』(1969、ゲオルギ・シェンゲラヤ)など、ジョージアの名作にはいつも、さまざまな人生のあたたかみや、そこに内包される歴史や文化の豊かさが感じられる。
しかし、ジョージア映画の「豊かさ」とは、土地や文化の実りのみに還元できるものではなく、さまざまな苦難の中で生み出されたものでもあった。歴史的には、ジョージアは1991年の独立まで、長きにわたってソ連邦の国として政治的な抑圧を受け、映画も検閲をはじめ、さまざまな苦難を受け続けてきた。「独立国」としての地位を奪われたなかで、映画人たちはどのように戦ってきたのか。
今夏、私たちはジョージアの首都・トビリシを訪れ、ジョージア映画界の「レジェンド」3監督にお話をうかがうことができた。そこでいただいたお話は、ジョージア映画の草創期からの歩み、ソ連時代の抑圧、さまざまな巨匠たちの活躍、女性映画人たちの躍動、映画教育の現在など、多岐にわたるものとなった。
(取材:滝本龍/若林良 構成:若林良 通訳・取材協力:児島康宏 監修:はらだたけひで 資料提供:(一社)コミュニティシネマセンター)
ジョージア映画の草創期からの歩み
最初に話をうかがったのは、メラブ・ココチャシュヴィリ監督。今年90歳を迎えた巨匠で、新作『第三世界』(2024)まで、デビューから70年近くにわたって旺盛な作品製作を続けている。現在でも車を自身で運転し、プールでの運動を習慣にしているという巨匠が語る“映画史”は、きわめて明晰で、かつ深遠なものだった。
――ココチャシュヴィリ監督は1935年生まれで、幼少期にはジョージアの民族的英雄に迫った歴史大作『ギオルギ・サアカゼ』(1943、ミヘイル・チアウレリ)に出演するなど、戦時中からジョージア映画の現場に携わってきました。その幼少期から現在までのキャリアについて、いろいろとお伺いできれば幸いです。
まず、私が生まれる前の話からにはなるのですが……。20年代のロシア(ソ連)では、アレクサンドル・ドヴジェンコ、セルゲイ・エイゼンシュテインといった時代を代表する映画作家たちが現れ、そうした作家たちの作品や、他国から来た映画人たちから影響を受けつつ、ジョージア映画が本格的にはじまりました。
20年代後半は作家たちが自分たちの裁量で作品を自由に作ることができる、つかの間の蜜月のような時間でした。世界的にも、28年から29年にかけてのジョージア映画は注目されており、私の知る限り、ブラジルの映画学校でも詳しく教えられているようです。たとえば『エリソ』(1928、ニコロズ・シェンゲラヤ)、『私のお祖母さん』(1929、コテ・ミカべリゼ)など、モンタージュや象徴的なオブジェなど当時の革新的な技術を用いた、現在でも発見の多い作品ですね。しかし、30年代に入ると、スターリンの独裁が確立され、そのような自由な表現が難しくなります。
スターリニズムの全盛期においては、検閲の目をかいくぐって生まれた優れた芸術映画もありましたが、当時を代表するような作品としては、体制に添う形で生まれた「国策映画」であるとは言えるでしょう。
ただ、そうした下地があったからこそ、いわば抑圧から解放されるような形で、60年代にジョージア映画はふたたび花開いたのだと言えます。私がデビューした1960年代には、オタル・イオセリアニ、ラナ・ゴゴべリゼ、ギオルギ・シェンゲラヤ、エルダル・シェンゲラヤ、レヴァズ(レゾ)・チヘイゼ、ミヘイル・コバヒゼといった時代を代表する監督たちも、続々と彼らの感性からなる作品を発表していました。
彼らの名前を出したのは、同世代だからなんとなく、ということではありません。彼らは私にとって仲間であり同志です。というのは、みなモスクワ国立映画大学(現:全ロシア映画大学)に留学し、同時代に映画を学んでいたからですね。
私たちは寮のなかで共同生活をしていました。ジョージアから来た学生たちで廊下を挟んだふたつの部屋をシェアするかたちで、ロシアの学生たちは、これらの部屋を「ジョージアのコミューン」と呼んでいたことを思い出します。私たちはことあるごとに、ジョージア式のパーティーを開いて、その中でジョージア式にワインの乾杯をして、というようなことをやっていたので、いわば異国での暮らしを送る中でも、ジョージアへの愛情が薄まることはありませんでした。
留学時代に大きかったのは、技術を身に着けたことはもちろんですが、さまざまな世界の名作に触れられたことですね。当時のソ連では、外国映画が見られるような機会はほとんどなかったのですが、教授たちは一流の映画を見せないことには映画を教えられないという考えを持っていたので、「今夜はこの部屋で何時から映画を上映する」ということを、こっそり学生たちに教えてくれていたんです。そのおかげで、たとえばアメリカのハリウッド映画やイタリアのネオリアリズモ映画の名作を、私たちは吸収することができました。
さまざまな世界の名作を思春期に見られたことと、異国においても、仲間たちとジョージアへの愛を育んできたこと。このふたつが、私の映画監督としてのルーツになっていると思います。
ジョージア映画の金字塔『大いなる緑の谷』
――ココチャシュヴィリ監督は『古いブナの木』(1957)でデビュー後、現在まででさまざまな作品を発表しておりますが、代表作として名高いのは、『大いなる緑の谷』(1967)ですね。エレヴァン国際映画祭で最優秀監督賞をはじめ3つの賞を受賞し、1996年のペサロ国際映画祭では「世紀の革新的100作品」に選ばれるなど、ジョージア映画の金字塔的な作品のひとつとして評価されています。
自身が監督した作品にはそれぞれ思い入れを持ってはいるのですが、『大いなる緑の谷』はおっしゃられるように、とりわけ批評家、また国際映画祭などで高い評価を受けることができた作品ですね。
家族の絆や、伝統的な労働のあり方など、さまざまな要素を作品の中には入れましたが、とくに描きたかったのは、社会の進歩が人の絆を壊しうる、ということです。
ストーリーを説明します。ソサナという、緑の谷で牛飼いを営んでいる男性が主人公で、彼は妻のピリムゼと、小学校に通っている息子のイオタムと暮らしています。ソサナは谷を転々としながら生活をしており、先祖代々受け継いできた牛飼いの仕事を誇りにしています。しかし、ピリムゼは定住の生活を望み、夫を愛しながらも別の男性と不貞を働いたりもしてしまう。
また、彼らが生活をする地域では油田開発が行われるようにもなり、環境もだんだん変わっていってしまう。新しい時代の中で、ソサナはこれまでと同じ生活を望みながらも、そこにはさまざまな困難が存在し……というのが大まかな流れです。
『大いなる緑の谷』は発表から60年近くが経ちますが、最近もドイツで大々的に上映されたりして、上映の機会はなかなか途切れないですね。ただ、それは映画の中身に加えて、作品が内包している「文明の進歩が人間の大切なものを壊す」というテーマが今もなお有効だから、つまり私たちの社会が、作品が作られた60年前から先に進んでいないから、ということが指摘できるのではないかと思います。
検閲に苦しめられたソ連時代
――『大いなる緑の谷』をはじめ、ココチャシュヴィリ監督の作品は少なからず検閲を受けられたとお聞きしています。
映画は完成しただけで終わりではなく、公開しないことには話になりません。これは今も昔も同じだと思いますが、ソ連時代の映画人には、検閲の問題はつねに付きまとっていました。
『大いなる緑の谷』では、作品が完成したのちも、10年の間ジョージア国内での上映は許されませんでした。正確には最初にわずかな期間だけ上映されましたが、すぐに打ち切られてしまったんです。
『大いなる緑の谷』はまず、エレヴァン国際映画祭で受賞したのち、国内での上映を検討するということで、共産党の中央委員会の審査にかけられました。そこでは、「労働者たちは日々の仕事に疲れて、たまの休みに映画に癒されに行くのだから、こんな映画では娯楽として楽しむことはできない」という意見がありました。しかし、中央委員会のメンバーにはある高名な俳優の方がいて、彼は「『大いなる緑の谷』は素晴らしい作品だ。この作品を見せるべきではないというのであれば、劇場でシェイクスピアの作品も、いや、すべての古典的な名作を見せるべきではない」と、強く主張してくれたんですね。それもあって、ようやく『大いなる緑の谷』はジョージア国内で上映されることになりました。
ただ、映画の上映が始まった2日後に新聞に『大いなる緑の谷』を酷評する記事が出て、その日のうちに映画の上映がされなくなりました。そのため、最初のジョージア国内での上映は、わずか数日で終わってしまいました。
次に上映の機会が訪れたのは、1975年です。ドイツでジョージア映画の特集上映が行われることになり、プログラマーの方たちが、選定のためにジョージアを訪れたのです。さまざまな映画を見る中で、彼らは『大いなる緑の谷』にもたどり着き、「ぜひ上映したい」と言ってくれました。そして『大いなる緑の谷』はベルリンで上映されることになり、その時は私も現地を訪れたのですが、彼らはジョージアに対しても、映画を国内で上映すべきだと働きかけてくれて、そのおかげで『大いなる緑の谷』は、ジョージアでふたたび上映されるようになったのです。
検閲については、ある考古学者の苦闘を描いた『暑い夏の三日間』(1983)という作品の時も苦労しました。考古学者が歴史的な発見をするも、その意義が国からは理解されず、失意のうちに亡くなってしまうという物語ですが、脚本段階の検閲で難癖をつけられ、また映画の完成後も、反体制的な映画だといううわさが広まり、公開が許可されなかったのです。紆余曲折を経てなんとか公開にこぎつけましたが、公開されたのは暑い夏の、ほとんど街に人がいなくなる時期で、しかもジョージアの考古学をテーマにしたドキュメンタリーとの2本立てでした。つまり、この映画を目立たなくするために、体制側があの手この手を使ったんですね。
――映画のアーカイブ(保存)という意味でも、やはり苦難はあったのでしょうか。
そうですね。一般的な事実として、1990年まではソ連の内部で作られたすべての映画のフィルムと音声は、モスクワのアーカイブに保存されています。ですので、上映などでオリジナル素材を使いたいという場合は、製作者たちがモスクワに行き、お金を払ってフィルムを使わせてもらえるようにしなければなりません。
『大いなる緑の谷』が幸運だったのは、他国にも映画のコピーが渡ったことですね。ドイツの方たちの働きかけで、ドイツでフィルムのコピーが作られ、のちにイタリアでデジタル化されて、質の良い状態で映画が上映できるようになりました。
現在、ジョージアフィルムのスタジオがトビリシにありますが、そこにアーカイブを作るという計画があります。そして、モスクワにあるさまざまなジョージア映画のオリジナルネガのコピーを作り、アーカイブに保管することを目的としているのですが、ただそのためには莫大な資金が必要で、先は長いですね。加えて、ロシアとジョージアの間には2008年に南オセチア紛争があり、それ以来正式な外交は途絶えています。外交がない国に、自分たちの作った映画のオリジナルネガがある――。そうしたことは、日本の方には少し想像しづらいかもしれませんね。
オタル・イオセリアニ監督との協働
――ジョージアの監督の中では、国外に作品づくりの場を移した方もいらっしゃいます。フランスに移住した、日本でもファンが多いオタル・イオセリアニはその代表格かと思いますし、詩的な短編作品で知られるミへイル・コバヒゼも、一時期はフランスで作品を製作していました。ソ連にまで範囲を広げれば、アンドレイ・タルコフスキー(作品に『惑星ソラリス』『サクリファイス』など)は国外に亡命し、イタリアやスウェーデンで作品をつくりました。ココチャシュヴィリ監督には、海外に移住されるという選択肢はあったのでしょうか。
ありませんでした。それについて印象的なエピソードをお話しますと、イオセリアニとは、「ジョージア」にまつわる大きな仕事を一緒にしたことがあります。それは『唯一、ゲオルギア』(1994)ですね。フランスに移住後のイオセリアニがジョージアの歴史と文化を紹介した、全編で4時間にのぼる作品ですが、私は当時パリを訪れ、作品の制作にかかわりました。それは私が、その10年ほど前に『道』(1983)という、ジョージアの歴史家や考古学者たちが、それぞれの立場でジョージアの源を振り返るドキュメンタリーを作ったことに起因しています。また当時は、ジョージアの国営テレビでディレクターの仕事をしてもいましたので、『唯一、ゲオルギア』のジョージア語版を、私が作ることにもなったんです。つまり、イオセリアニは外部の立場から、私は内部の立場から、一緒に「ジョージア」を語る作品をつくりあげたんですね。
表面的には、イオセリアニはジョージアを離れ、私はジョージアに残ったとは言えるでしょう。しかし、どちらにとってもジョージアという国が不可分な存在であり続けたことは同じです。イオセリアニは国内で映画の制作ができなくなったからフランスへ渡りましたが、フランスでも『群盗、第七章』(1996)や『汽車はふたたび故郷へ』(2010)など、ジョージアをモチーフとした作品の制作を続けましたし、私は私の視点で、ジョージアにいなければ作ることのできない映画を作り続けました。
タルコフスキーについては、生前は親密な付き合いがありましたが、彼はかつて、ジョージア映画について言及した文章を書いてくれたことがありました。エルダル&ギオルギのシェンゲラヤ兄弟や私の名前を挙げたうえで、「今日のソ連において、優れた民族映画はジョージアにある」と評価してくれたんです。それは今申し上げたようなことと、どこかでつながるように感じています。
後編記事『【97歳の世界最高齢映画監督も登場】ジョージア映画界のレジェンドたちが語る〈今も続く映画への検閲〉〈岩波ホール総支配人との思い出〉〈女性映画人へのエール〉』へ続く。