東畑開人さんが臨床心理士としての集大成として書き上げ、発売から2ヶ月で9万部を突破した『カウンセリングとは何か 変化するということ』(講談社現代新書)。刊行記念トークイベントとして、文芸評論家の三宅香帆さんを迎えた「読書とカウンセリングと個人主義-人生における文学の役割とは何か」が、10月17日にジュンク堂書店池袋本店で行われました。『カウンセリングとは何か』が話題の東畑さんと『考察する若者たち』を刊行したばかりの三宅さん。ふたりのトークイベントの内容を、全3回(第1回、第2回は前後編)にわたってお届けしています。
今回の対談(2)後編では、集団から外れることに対して現代人が持っている恐怖心や、読書によって能動的に得られるものの価値が語られます。
(構成、文/小沼理)
集団から外れられる社会の方が良い
東畑:読書離れにも色々な理由があると思いますが、現代はひとりになって本を読むための前提となる「個人的であることの安全感」が喪失しているのではないかと思うことがあります。本を読むって危険なことだと思うんです。たとえば教室で、みんなが休み時間にドッジボールやってる中でひとり本を読むって、ラディカルじゃないですか。
三宅:小学生のときの私ですね。
東畑:そうだったんですね(笑)。
この対談の冒頭で触れた批判について考えるタイミングが来たと思います。「みんな読書をしよう、では社会は変わらないじゃないか」という批判に対して三宅さんが「いや、でも人がちゃんと本を読める社会がいいんだ」と返していたのが印象的で、非常に重要なことだと思いました。「みんなで社会を変えよう」と人々が思える社会も大事だけど、同時に他の人がどうであろうとラディカルに家に帰って本を読んでいられる社会であることも根源的に大事だと思うんです。個人的であることを良しとする社会だし、そういう余白を作れる社会ですね。それでは社会はうまくまとまらないかもしれないけど、それでもそれぞれがそれぞれにいろんなこと考えていられるほうが、社会としては自由で豊かではないかと。
三宅:そうなんですよね。政治運動には集団性がどうしても生まれるじゃないですか。そこに乗れない人もいていい。群れから外れた人もいていい社会のほうが、安全性が高い気がします。だけどそういうことが、しづらくなっている気がする。集団から外れることへの恐怖が強くなっているんでしょうか。
東畑: SNSが登場してから世界中の政治文化が似たようなものになっているじゃないですか。いわゆるポピュリズムの台頭と言われるものです。でも、各国が同じようになっていくのって不思議ですよね。これは人間という動物のものすごくベーシックなところが、SNSによって活性化するからなのではと思っていました。
ちょっと雑な議論ではあるのですが、文化という中間集団的なものが蒸発しているということです。すると、人々はバラバラになって孤立するか、みんなで一斉にまとまるかと両極端になってしまう。そう考えたときに、読書というのは文化という中間的なものが機能していたときに豊かだったのではないかと思ったんです。一人になるための安全感を確保するものとして中間集団がある。
三宅:孤立か集団かのどちらかだったら、社会的には孤立が危険ですよね。
東畑:そう、その中間に「一人になること」とか「個人的であること」があるのだろうと。だからこそ、「本を読める社会がいい」というのは、ラディカルで政治的なことなんじゃないかと思ったんです。それはカウンセリングの存在とも関わります。密室で二人の人が話をするってラディカルなことなんですよ。全体主義国家だと逮捕される(笑)。反社会的なことでも、個人的に考える自由があること、それが読書の本質だと思うんです。
三宅:その件で東畑先生がくださったメッセージで、すごく腑に落ちたのは、「個人になれる」のは近代の権利である、ということです。
そして「集団」は、いじめが起こりやすい。集団になることで政治運動ができる場合もあるけど、それは翻ると、誰かを排除したい気持ちや、ヒエラルキーが生まれることにもなる。だからそこから外れられる人がいるほうが文化度が高いし、近代的。本当そうだと思うんです。
東畑:祭りは必ず終わるじゃないですか。みんなでドッジボールをして盛り上がる。でも、チャイムが鳴ったら終わる。あるいは、日が暮れたら終わる。そのあとに、我に返ることができるのが自由だと思うんです。つまり、一人に戻るということです。
読書もカウンセリングも、そういう意味で我に返るためのものだと思っています。
僕自身もカウンセリングに通っていましたが、日常で社会的な自分が喋っているのとは、違うモードの自分が喋るんですね。そして喋り始めると、今まで思ってもいなかった話になる。言葉が言葉を引っ張ってきて、「自分はこんなことを思っていたんだ」と驚く。そういうとき、我に返ってるんだと思うんです。
三宅:物語もそうですよね。物語でもお祭りでも、返る我があるほうが行く気になるし、安全だから、冒険する気が起きますよね。
本を読むという「避難」
東畑:ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』(岩波書店)ってあるじゃないですか。これは10歳の男の子・バスチアンがいじめられていて、屋根裏で本を読んでいるうちに冒険がはじまる物語です。僕の中で、本を読むってああいう感じなんです。あの避難感。みんながドッジボールしているときに、本に避難する。読書とは逃げ込む場所でもある気がします。心の砦ですね。
三宅:それは今の小学生だと、マイクラとかゲームとかなんでしょうか。YouTubeの配信とか。それも避難になると思いますか?
東畑:いろんなことが避難所になると思います。ゲームも漫画もYouTubeも、アイドルも避難になる。ただ、それと本は少し違う気もするんですよね。読書ってコミットメントが必要だからかな。主体的に想像しないといけない。与えられるんじゃなくて自分で見つけている感じがある。動画は向こうがどんどんこっちに到来するじゃないですか。本は自分が入っていく感じ。それが個人的であることを可能にするかもしれない。
三宅:なるほど。それから、文字だけしかないからこそ自分に寄せて考えやすいのもありそうですね。『カウンセリングとは何か』もそうですし、本を読みながら自分のことを考えてしまうのは、作者の顔がその場では見えないからでもあると思います。
東畑:僕はどうしても学術書を読むことが多いんですけど、これも自分が何か考えるために読んでいるんですよね。情報をインプットするためだけではないんです。考えたいことがあって、その考えを進めるために、本と対話しているんだと思うんです。そう考えると、個人的であることというのは、心の中に対話相手がいるということでもあるのだと思います。(記事(3)へ続く)