東畑開人さんが臨床心理士としての集大成として書き上げ、発売から2ヶ月で9万部を突破した『カウンセリングとは何か 変化するということ』(講談社現代新書)。刊行記念トークイベントとして、文芸評論家の三宅香帆さんを迎えた「読書とカウンセリングと個人主義-人生における文学の役割とは何か」が、10月17日にジュンク堂書店池袋本店で行われました。『カウンセリングとは何か』が話題の東畑さんと『考察する若者たち』を刊行したばかりの三宅さん。ふたりのトークイベントの内容を、全3回(第1回、第2回は前後編)にわたってお届けしています。
今回の対談(2)前編では、カウンセリングによって「自分とは何か」という問いと向き合うことについて、自分を社会に最適化させる若者たち、「なりたい自分になれる」というSNSの幻想、そして「なれなかった」という喪失が持つ文学的な価値へと話は展開していきます。
(取材、構成/小沼理)
自分を最適化させてしまう
三宅:今月、『考察する若者たち』(PHP研究所)という新刊を出したのですが、そこでは「今の時代は若者を中心に、『自分』は社会に最適化させないといけない存在になっているんじゃないか」ということを書いています。
私たちの世代だと、「本が好きだ」「スポーツが好きだ」とか、それぞれの好みや人との軋轢によって自分とは何かを考えていくことができました。でも、今って自分で何かを見つける前に、YouTubeのおすすめがどんどん流れてくる。好きだと思う前におすすめされて、なんとなくハマるけど、本当にこれって好きなものなんだっけ? と思う人が増えている。
人間関係も同じように、「自分はこうしたいんだ」というよりも前に、「こうすべき」という規範が強まっている。そして、それに対してのストレスが知らず知らずのうちに募って、抑圧する自分にぶち当たる人がいる。カウンセリングに訪れるユーザーも、そういう方が多いのではないかと想像します。
東畑:まさにフロイトがそういう世界観ですよね。当時のウィーンは文化的な規範が強かった。フロイトが診ていた患者さんたちはその文化に最適化しているけど、次第に耳が聞こえなくなるとか、言葉がうまく喋れなくなるとか、症状が出てくる。当時「ヒステリー」と呼ばれ、今では「転換性障害」と呼ばれたりします。いずれにせよ、心の問題で、身体に症状がでることを言います。そのとき、フロイトは彼らの中には文化の抑圧によって黙らされている、もうひとつの声があるだろうということに気付き、それを「無意識」という言葉で表したんです。
今の社会も似たようになってきていますよね。規範がすごく強まってきて、自由さが失われている。
以前、大学に勤めていたとき、ゼミ生に自己紹介してもらったことがありました。そこではみんな好きなもの、推しているもので自分を語る。「ディズニー好きです」とか「BTS好きです」とか。でも実は、何が好きかではその人のことってよくわからない。それは、文化に最適化されているからだと思う。
三宅:なるほど。
東畑:代わりに何が嫌いかを聞くと、その人らしさが出てくる。それは傷について語るってことですよね。「ディズニー嫌いです」って言われたら、「何があったのか」って思うし、「心理士嫌いです」と言われたら、これはただごとではない話になってきたと思うじゃないですか。そこに「個人」を感じますよね。
三宅:文学的瞬間ですね。人に表明できるものが、最適化されたものになりつつあるんでしょうね。規範的にOKなもの、人から変な感じで見られないものを「これが自分です」と言いたくなる。でも、そこから外れた「嫌い」とか「なんかムカつく」みたいなもののほうにこそ、実は自分がある。
なりたい自分になれない痛み
東畑: カウンセリングをしていると、「こうありたかった自分」とか、「こうあるべき自分」になれなかったことに傷ついてきた人とよく出会います。それを「こうありたい自分にいかになっていくか」に取り組むのがコーチングや自己啓発ですね。カウンセリングはそうじゃないんです。「どうやってなりたかった自分という古い物語を終わらせていくか」に取り組んでいく。
「自分と向き合う」って、古臭い言葉に聞こえるかもしれない。実際、「私とは何か」という問いは今、(笑)になっちゃいます。でも本当は、現代でもみんな古い物語に苦しんでいるんじゃないのかな。
三宅:「なりたい自分を設定して、逆算して考えましょう」は自己啓発の典型的ストーリーですよね。ただ、そうなれたらいいんだけど、ほとんどはやっぱり、なれない。理想は理想であるという事実と、現在地の自分を直視するのがいかに傷つくかということは、案外言われないですよね。傷ついている時間の余裕がないから、見過ごされている感じもしますし。
東畑:生き延びるためには「私とは何か」を考えている場合じゃない、というのもあります。まずは文学ではなく、現実をなんとかやりこなさなければいけない。
それに、なりたい自分にはなっているけど、それが自分の中の何かを殺すことによって成り立っている場合もあります。
三宅:『カウンセリングとは何か』に登場する、30代後半女性のハルカさんは特にそうですよね。バリキャリで順風満帆に見えるけど、満たされない。
東畑:そうそう。それは周囲からすると「人生、うまくいってるじゃん」となっちゃうから。いわゆる「贅沢な悩み」という問題です。
三宅:自分でも気づけない。それに、「人には生きていれば行き詰まる瞬間ってあるよね」ということ自体が、なかなか受け入れられない世間の雰囲気もあるように感じます。それって「みんな、なりたい自分になれないですよね」と言うことになるじゃないですか。「なりたい自分になれない」ことの痛みが、現代社会ではものすごい気がしています。
東畑:ああ、それはそうだと思う。
三宅:特に今は「なりたい自分に、みんななれる時代だよ」というSNSの幻想が強いし、実際にSNSではなりたい自分になったかのように振る舞うことが多い。でも、それによって殺されている部分がありますよね、とか、なりたい自分になれないですよね、という話って、普通の言葉では伝えづらいです。言うほうも言われたほうも深く傷ついてしまうから。
東畑:「現代の失格感」みたいなことですね。若い人とカウンセリングをしていると、彼、彼女たちにとって仕事を選んでいくとか、職業人になっていくことがいかに途方もないかを感じるときがあります。社会では「なりたい自分」が重視されすぎていて、しかし実際にやりがいがある仕事になかなか巡り会えなくて、そのことに失望して「自分はなんのために生きてるんだろう」となってしまう。これは苦しいと思うし、何か少しでもやりがいを感じられる仕事と出会ってほしいと祈ります。
ただ、これはあくまで若いときの話です。若いときはなりたい自分になっていくことは大事なことだし、僕も応援します。でも40代以降は、なれなかった自分の物語を考えていくことに、僕は臨床的な意義があると思います。
三宅:なぜ40代以降なんでしょう。「中年の危機」ですか?
東畑:そうだと思う。ユングは中年を「人生の正午」と言っています。人生の前半は太陽が上がっていく時期、40歳以降は太陽が下がっていく時期。今までのぼっていた人が下りのモードに切り替えて、まったく違うフェーズに入るから、ピンチになりやすい。
ユングの臨床は、実はほとんどこの中年期以降のケースなんですよ。
三宅:へえー、意外!
東畑:ユングは若い頃は病院で働いているから、社会に適応していこうという人生の前半の課題を抱えた患者さんと臨床をしているんですけど、後半は自分のプライベートオフィスで人生後半の課題を抱えたクライエントが中心になっていきます。すると、人生の正午以降の、今まで生きてこなかった物語をどう生きるか、あるいは古い物語をどうやって喪失していくか、というテーマが問題になってきます。
一般的にも文学は喪失を重要なテーマとして扱いますよね。
三宅:本当にそうですね。なれなかった、失ったもの自体の物語性がある。
私はカズオ・イシグロが好きなんですけど、『日の名残り』(早川書房)という作品は、誠心誠意イギリスで仕えていたある執事が、自分の政治信条が実は間違ったものだったと知って、どう人生と折り合いをつけていくか、という話なんです。すごく後悔しているんだけど、それを他者には言えない。だけどやっぱり後悔していることが滲み出ている。読者にはそれがはっきりとわかるけど、当の本人はそれがわからず喋っている、という小説で。
こういう小説を読むと、後悔というものには文学的な美しさがあると思うんです。そして、「今の世間の価値観で、これを言えるだろうか」と考え込んでしまう。
東畑:喪失の価値って、資本主義的には損切りみたいな話になっちゃうけど、心にとっては豊かさがあるんですよね。
続きの対談(2)後編〈人といるのがつらくなるときどうするか…東畑開人と三宅香帆が明かす「逃避術」とは〉では、集団から外れることに対して現代人が持っている恐怖心や、読書によって能動的に得られるものの価値が語られます。