名探偵ホームズを生んだ作家コナン・ドイルと、ミステリーの女王アガサ・クリスティー。約30歳の年の差があった二人だが、同時代を生きている。
老年期のドイルが作家として苦悩する中、1926年に文壇をにぎわせる一つの事件が起きる。アガサ・クリスティーの失踪だ。
この時ドイル67歳、クリスティーは36歳。この記事では、諸説あるクリスティーの失踪原因について、現地専門家の最新分析を紹介する。
※この記事は、シャーロック・ホームズの生みの親、作家コナン・ドイルの数奇な生涯を解説した篠田航一著『コナン・ドイル伝 ホームズよりも事件を呼ぶ男』(2025年11月20日発売)より一部を抜粋・編集したものです。
終生、語られなかった失踪理由
ドイルにとって推理作家の後輩にあたるアガサ・クリスティーは、1926年12月3日、突然消息を絶った。一時は死亡説も流れ、警察は大規模な捜索に乗り出した。結局11日後に見つかるのだが、今なお失踪の理由は謎のままである。クリスティーは終生、その理由を詳細に語ることはなかった。
時系列で言うと、クリスティーは12月3日夜、ロンドン近郊のバークシャー州サニングデイルの自宅から、乗用車を自ら運転して一人で出かけた。7歳の娘ロザリンドは家に残したまま出発した。
クリスティーは夜のうちに途中で車を乗り捨て、翌12月4日までにロンドンのキングスクロス駅から鉄道に乗った。このあたりの時間的経緯は不明だ。そして温泉リゾートのあるハロゲイトという町で下り、「テリーザ・ニール」という偽名でホテルに宿泊した。
だがホテル側は、この客がほぼ手ぶらで、所持品が何もないことを不審に思った。クリスティーはホテル滞在中に新しいコートや靴、果物、鉛筆、日用品を急遽買い込み、それでどうにか数日間のホテル暮らしをしのいだ。
12月7日頃になると、新聞に「アガサ・クリスティー失踪」の記事が出始める。当然、クリスティーの顔写真も掲載された。やがてホテル内では「あの客に似ている」といった噂で持ちきりになった。あとは時間の問題だった。地元警察に通報があり、クリスティーは12月14日、無事に保護された。
夫が恋に落ちた「知り合い女性」
なぜ突然、姿を消したのか。
アガサ・クリスティー研究の第一人者で、英サウサンプトン・ソレント大学のマーク・オルドリッジ准教授はこう話す。
「失踪の直前、彼女はいわば精神的な破綻状態にありました。二つの出来事が重なったのです。まず、最愛の母親が亡くなりました。クリスティーは母親と仲が良かったので、大きなトラウマになりました。追い打ちをかけるように、夫が別の女性と恋に落ち、離婚したいと告げてきました。弱っているときに一気に起きた二つの出来事を考えると、失踪は不思議ではありません」
ハロゲイトのホテルで発見された時、クリスティーは、自分は記憶を失っていると語った。
「あまりに多くの出来事が起き、それを頭の中でまとめるのに苦労していたのでしょう。ある種のブレイクダウン(故障、心身の破綻)だったのは間違いありません」とオルドリッジ氏は言う。
クリスティーはこの年の4月に最愛の母を亡くしていた。さらにこの同じ年、夫アーチボルドからも「離婚したい」と言われた。夫はナンシー・ニールという別の女性と恋に落ちてしまったため、クリスティーに別れを告げてきたのだ。
このナンシー・ニールは当初、家族ぐるみの付き合いで、クリスティー自身もよく知っていた仲だったため、裏切られたショックは大きかった。クリスティーがハロゲイトのホテルに宿泊した時に使った偽名が「ニール」だったのも、いわば「当てつけ」で、かなりの皮肉を含んでいる気がする。
クリスティーは自身が失踪することで夫を困らせ、復讐を試みたとの説がある。同情を引き、離婚を思いとどまらせたかったとも言われる。