「紀伊國屋じんぶん大賞2025 読者と選ぶ人文書ベスト30」の1位に輝いた気鋭の批評家・福尾匠さんの新著『置き配的』が発売族重版となり話題となっております。
『置き配的』「序文」より一部抜粋・紹介します。ぜひご覧ください!
労働者と消費者の区別がつかないシステム
この本の日付は二〇二〇年三月二三日に設定されます。
その日、アマゾンジャパンは「置き配指定サービス」を標準の配送方法とすることを発表し、同日におこなわれた会見で、小池百合子都知事は新型コロナウイルスの流行を受けて初めて「ロックダウン」の可能性を示唆しました。
置き配とコロナ禍という、二〇二〇年代のわれわれの社会のかたちを象徴するふたつのものがこの日付において交差しています。
置き配とは、本来は手渡すべきものを地面に置いて帰るという、たんなる手抜きや省略ではありません。置き配がひとつの発明であるのは、手渡しや伝票へのサインとはまったく異なる手段で、「物が確かに配達された」という事実を確定し共有する仕組みだからです。
配達員は伝票のコードを読み取り地面に置いた荷物の写真を撮影し、システムにアップロードする。同時にその写真が添付された配達通知がわれわれのスマホにポップアップする。
つまり置き配とは、物そのものの受け渡しによってではなく、届ける側と受け取る側で同時にメタデータを共有することで、「物が確かに配達された」という事実を確定する仕組みなのです。
興味深いことに、置き配と同じ仕組みはたとえばシェアバイクサービスのLUUPでも用いられています。LUUPでは電動キックボードをポートに返却するときに、駐車したところの写真をアプリを介して撮影することが求められますが、このとき利用者がやっているのはアマゾンの配達員が置き配するときにしていることとまったく同じです。
あるいはコロナ禍とともに、ウーバーイーツの配達員が街に溢れたことを思い出してもいいかもしれません。これもシステムとしては置き配と同じで、かつ、配達員が雇用されず、おのおの「個人事業主」としてアプリに登録するという、よく言えばフレキシブル、悪く言えば保障も何もない、ギグワーカーと呼ばれる労働形態もこの時代を象徴するものでしょう。
置き配的なシステムには、現代の世界のあり方が凝縮して表れているように思います。そしてそのシステムのなかでは労働者と消費者はほとんど区別がつかず、プラットフォームのユーザーとして一元化される。
もちろん狭義の情報管理システムとしては以前から同様のものが物流の世界で用いられていました(とりわけ「コンテナ革命」以降)。しかし重要なのは、一方でそれが文字通り「ラストワンマイル」としてのわれわれの生活圏にまで浸透してきたことです。そして他方で、置き配的なものは特定のテクノロジー、あるいはアマゾンやウーバーイーツなどの特定の企業に限定されるものではなく、われわれの社会全体の秩序や形式に関わるものとなりつつあるということです。だからこそ僕はこの本で、狭義の置き配とはべつに、より広い意味で「置き配的なもの」という言い方をしています。
言葉尻を捉えて相手をラベリングするのは言論か
コロナ禍以降、社会は置き配的なものとなった。
これが、この本全体を貫くビジョンです。
外出を自粛し、Zoomで会議をし、外ではマスクを着け、ドアの前に荷物が置かれるのに気づくより早く、スマホで通知を受け取る。個々人の環境や選択とはべつに、そのような生活がある種の典型となった社会のなかで、何が抑圧され、何が新たな希望として開かれているのか。そうした観点から、人々のありうべきコミュニケーションのかたちを問うこと、それがこの本のテーマです。
コロナ禍が去り、飲食店からはアクリル板が消え、マスクを着けずに外出することに抵抗がなくなったとしても、何かが不可逆なかたちで変わってしまったのも確かだと思います。むしろその変化は、感染予防という明白な目的がなくなったことによって、より捉えどころのないものとなり、われわれの生活のかたち、考えの傾向を静かに方向づけているのではないでしょうか。
置き配がたんなる物体の移動に関する技術ではなく情報技術でもあるように、置き配的なものはわれわれのコミュニケーションにも関わっています。
つまり、狭義の置き配が「届ける」ということの意味を変えたのだとすれば、置き配的なコミュニケーションにおいては「伝える」ということの意味が変わってしまったのだと言えます。
そして現在、もっとも置き配的なコミュニケーションが幅を利かせている場所はSNS、とりわけツイッター(現X)でしょう。保守とリベラル、男性と女性、老人と若者、なんでもいいですが、読者のみなさんもいちどは、彼らの論争は本当に何かを論じ合っているのかと疑問に思ったことがあるのではないでしょうか。
相手の言葉尻を捉えて、それを言質として引用して、相手を特定のポジションのもとにラベリングする。それがはたして言論だと言えるのか。
発言の内容がメッセージであるのに対して社会的属性やポジションを「メタデータ」だとすれば、このような論争で起こっているのも、置き配的な、メッセージのやりとりよりメタデータの共有が優先される事態だと言えます。
とうぜん、ひとりの物書きとして僕自身は自分の書いたものの意味がたんなる社会的属性やポジションに回収されてしまうことはとても嫌ですし、それだけならわざわざ時間をかけて文章を書く意味もありません。
つまり、置き配的な社会を問うことは、書くことの意味を立ち上げなおすことにも直結するはずです。