2025年6月3日に惜しまれながらご逝去された昭和の大スター、長嶋茂雄さんの“お別れ会”が、本日11月21日に東京ドームにて開催される。通算444本塁打を放った大打者でありながら気さくな人柄で愛された彼は、38歳で現役を引退した際、本誌でその思いの丈を綴っていた。
彼の手記で赤裸々に語られた、現役最終打席での心境、引退を決めた理由、そして盟友王貞治さんとの思い出とは…。
週刊現代1974年10月31日号の記事を再編集して3回にわたってお届けする。
第3回
前回記事『≪追悼≫長嶋茂雄さんの現役時代の「手記」を大公開…ミスタージャイアンツが現役引退を決めた理由』より続く。
川上哲治監督も涙
「ホタルの光」のメロディーが場内に流れていた。
ぼくはベンチの前に居並ぶ三十八人の仲間たちと、一人ずつ堅い握手をかわした。
「ご苦労さんだった……」
川上さんは、そういったようだったが、その声は聞きとれないほど低かった。川上さんの目は赤くなっていた。一人、また一人……と握手しながら、ぼくはまた泣いた。
みんな喜びも苦しみもともにわかち合ってきた仲間だった。もうぼくは彼らと試合でボールをまわして、「さあ、いこう!」と互いにかけ声をかけることもなくなったのだ。
震える足を踏みしめながら、ロッカーに戻った。
蘇る王貞治との思い出
ワンちゃんが、真っ赤に充血した目をして、まっすぐにぼくのところへやってきた。
「チョーさん……」
ワンちゃんは、不意に声をつまらせ、あとの言葉をのみこんだ。なにもいわなくても、わかっていた。
これから巨人を一人で背負っていかなければならないワンちゃん。思えば、この最後のゲームでぼくのホームランに続いてライトスタンドにアーチをかけたアベック・ホーマーも、数えて百六回目だった。
最初のアベック・ホーマーは忘れもしない、あの劇的だった三十三年の天覧試合でマークしたのだった。あのころのワンちゃんは、まだ高校生然としたルーキーだった。
あれから十七年───。初めて宮崎キャンプへ来たとき一週間だけ同じ部屋に寝泊まりし、ものすごいイビキでぼくを驚かせたワンちゃんとは、バットマンとしてもお互いシノギを削りあった仲だった。どんなときでも正々堂々と戦い抜いたワンちゃんとぼくは、きょうを最後に違った道を往く。ぼくは返す言葉もなく、ただじっとワンちゃんの目を見つめた。
グラウンドの泥がついた手でそのままこすったのか、ワンちゃんの顔はうっすらと汚れていた。
「感謝」の気持ち
それにしても、なんといううれしい声援だったことか。第一試合が終わったあと、ぼくはわれ知らずライト・スタンドへ向かって歩きだし、男泣きに泣きながら手を振った。
この日のために球場へ駆けつけてきてくれた五万人のファンの一人一人に、ぼくは心の底からお礼をいいたかった。
二十数年前、まだ高校生だったころのぼくが息をつめて川上さんや別当さんの姿をみつめたあのライト・スタンド。そこにいる少年ファンの一人一人の手を堅く堅く握りしめてやりたかった。
長島茂雄というどこにでもいる一人の男が、きょうまでこうしてがんばってこられたのも、こうしたファンのおかげだった。ファンの声援がぼくを鍛え育ててくれた。
そして、ふだんマスコミにとりあげられることのない縁の下の力持ちのような人たち。
多摩川のグラウンドを整備して、ツバを吐いても烈火のように怒った務台三郎さん、忘れ物の多いぼくのために、ときにはタクシーで宿舎までグラブをとりに戻ってくれた用具係の大森君、そしてスコアラーの高橋君と小松君。バッティング投手としていやな顔一つみせずに連投してくれた峰投手……。そういう人たちの顔を思いうかべ、ぼくはスタンドに向かって深々と頭をさげた。
みなさん、ほんとうにありがとうございました…。ほんとうに…。
「週刊現代」1974年10月31日号より