なぜ国力差のある長期総力戦は可能だったのか。金融による「国力の水増し」はいかにして行われたのか。
未曾有の戦争の「舞台裏」には、銀行員(バンカー)たちの奮闘があった。注目の新刊『太平洋戦争と銀行』では、植民地経営から戦費調達、戦争の後始末まで、お金から「戦争のからくり」を解き明かす。
(本記事は、小野圭司『太平洋戦争と銀行――なぜ日本は「無謀な戦争」ができたのか』の一部を抜粋・編集しています)
接収と営業再開:中国・香港・シンガポール
対米英戦が始まると、日本は支配下の北京、天津、青島、上海などで「敵性銀行」を接収した。米英系だけでなく、蒋介石の重慶政府系の銀行も対象だ。
軍は金融の専門知識を持たないので、接収の実務は正金銀行、台銀、鮮銀、満洲中央銀行などの特殊銀行や、住友、三井、三菱などの財閥系銀行に依頼した。例えば米系チェース・ナショナル銀行上海支店の接収では住友銀行上海支店が検査を行い、その建物は昭和18年1月から鮮銀が上海支店として使用した。また接収した現金は、軍が現地での物資購入資金として管理することになり、正金銀行の現地支店などに預託された。
逆に香港やシンガポールなどでは、開戦と同時に日系銀行が接収され、行員を含む日本人が現地当局に抑留された。しかし日本軍が進軍して来ると日本人も抑留から解放され、1月24日に香港では正金銀行・台銀の支店業務も再開された。
シンガポールで拘束された日本人は、ボンベイ(現:ムンバイ)やカルカッタ(現:コルカタ)経由でニューデリー郊外に連行された。そこで、インド、ビルマ(現:ミャンマー)やインドシナ半島で抑留された日本人たちと一緒に収容される。その後、彼らは交換船で帰国した。台銀シンガポール支店の行員たちも、昭和17年6月に英国船でモザンビークまで行った。そこで日本郵船が派遣した交換船「龍田丸」に乗り換えて、昭南(シンガポール)を経由して9月に横浜に着いた。
シンガポールも2月15日に日本軍が占領する。ところが戦争勃発前にいた日系銀行の行員はインドで拘束されていた。正金銀行や台銀では営業再開に向けて行員をシンガポールに送り、今度は日本が接収した香港上海銀行では正金銀行が、オランダ貿易会社だった建物を使って台銀が、それぞれ支店を再開した。シンガポールが日本軍政下で「昭南」と改称されたことから、再開された支店名も「昭南支店」となった。
つづく「戦地でとにかく現金が足りない…通貨発行を増やすと何が起こるのか」では、東南アジアにおける「資源開発と軍票の回収」についてくわしく見ていきたい。