隙間バイトサービス「タイミー」では、2025年4月の時点で60歳以上で使用する人が30万人を超えたという。65歳以上の人も約11万人で、最高齢は90歳。生活が苦しいからという理由だけではなく、高齢者にとって「働く」ことの重要性が明らかになっている。
中でもその経験を生かして働くことができれば、誰にとっても幸せな状況になるはずだ。作家の町田哲也さんの母親は教師をつとめており、障害のあるこどもたちの学童施設でずっと働いていた。自宅の床が傾いたことに気づき、母が管理人の仕事をしながらのんびり暮らせるように「終活アパート」建設を提案したときも、学童の仕事を続けるつもりでいたのだ。
しかし、アパート完成が近くなったころ、新規に学童を立ち上げるからそこに来てほしいと言われていた案件が突然なくなってしまった。
働き者の母親が「やることがない」としょんぼりしている中、アパートの見学をすることになったのだが……。
ほぼ完成したアパートの見学へ
6月のある日のことだ。ぼくは母と姉母娘と待ち合わせて、ほぼ完成したアパートを見学することになっていた。数日前に、母は高熱で寝込んでいた。すぐに体調が戻ったと聞いていたが、暑い日が続くなか無理する必要はない。母が是非見たいといわなければ、予定を変更するつもりでいた。
最寄駅から歩いて10分弱。母は日傘をさして、姉母娘と話しながらぼくの後ろを歩いていく。せっかちで昔から歩くのが早かった母も、ずいぶんゆっくりになったと思う。通り過ぎる公園やスーパーを、興味深そうに眺めていた。
「どこまでがアパートなの?」
アパートを見た第一声は、意外な言葉だった。建物がダークグレーとホワイトの二色にわかれているので、建物が二つあると勘違いしたのだろうか。
「どこって、全部うちのアパートだよ。ここで10組の家族が生活していくんだ」
「ずいぶん立派なアパートだね」
驚く母の表情がうれしくて、ぼくは3人を一階の部屋に案内した。アパートの入り口付近では植栽の作業が続き、部屋のなかには傷がないか最終確認するスタッフがいるはずだが、少しでも住んだときのイメージを持ってほしかった。
「住むなら、ばあばとがいい」
屋外は気温が30度を超えていたが、シャッターが下りていたうえに断熱効果が優れているので、部屋のなかはそれほど暑く感じない。ぼくの説明に母が反応したのは、各部屋に設置された階段についてだった。
プライバシーが保たれているので使いやすいが、3階まで狭い階段を老人が一人で上がるのはひと苦労だ。畳の部屋がないので寝るときはベッドなのだろうが、長い階段をここまで搬入できるのだろうか。
「通常の一戸建てやアパートと同じ幅の階段だから、たいていの家具は持ち込めるよ」
「それなら安心だね」
「大きくなったら、茜ちゃんもお友だちと一緒に住ませてもらえば?」
姉の言葉に、小学6年生になる姉の娘が反応した。
「住むなら、ばあばとがいい」
「そうだね、一緒に住もうね。それまでお祖母ちゃんも頑張らなくちゃね」
母の腕を抱く姉の娘を見ていると、そんな選択肢もあったのかと気づかされる思いがした。
フルタイムで働く姉の子育てを、母はずっと手伝ってきた。子どもからすると、小さい頃から一緒に過ごすお祖母ちゃんこそが身近な存在なのだろう。二人で暮らすことが現実的にあり得るかわからなかったが、母の笑顔に浮かぶ未来を否定する気にならなかった。
母が「あんぱん」を食べて語ったこと
アパートを出ると、4人で近くにあるケーキ屋に向かった。フランス帰りのパティシエが開いた店で、地域で一番の名店と知られた存在だ。姉母娘がいちごとマンゴーのタルトを頼み、ぼくはチーズケーキを頼んだ。
母がオーダーしたのは、あんぱんだった。値段の高さに驚いて、一番安いパンにしたのだろう。凝った造りのパンが多いなかで、あんぱんなら死んだ父がパン屋をやっていたときから食べ慣れている。高価なものに対する拒否反応や抵抗感を隠せない、母らしい選択だった。
「美味しいね。どうやって作ってるのか、お父さんにも教えてあげたいね」
母はあんぱんをひと口食べると、なかの餡に目を細めた。
「今頃そんなこといわれても、お父さん困っちゃうだろ」
「昔はパンなんて安くて、儲けがほとんどなかったんだから」
300円近くするあんぱんが、母には一昔前のケーキほどの値段に思えたのかもしれない。いくら物価が上昇しても、母の尺度はもう何十年も変わっていなかった。
仕事から帰った母がパン屋の店番を…
脱サラした父が小さなパン屋をはじめたのは37歳、ぼくが3歳のときだった。3つも店舗を開いた時期もあったが、酒好きの父のことだ。次第に店の儲けより飲み代のほうが大きくなっていく。仕事から帰った母に店番を任せて飲み歩く姿が、ぼくには不思議でならなかった。
教師として働いて、家事や子どもたちの世話をして、そのうえでなぜ飲み歩く父の代わりに店番までしてあげるのか。母は大きなため息をつきながら、どんなに遅くまで飲んでも、朝早く起きてパンを作るのは誰でもできることじゃないと父をかばった。それが家族のためだからと。
苦しい生活のなか一個数十円のパンを売ってきた母には、300円近くするあんぱんはどんな味がしたのだろうか。
世間の感覚でいえば根っからのケチに映るかもしれないが、日々の生活を暮らしていくことに必死な母の現実だ。これが金遣いの荒い父と、長くやっていけるコツだったのかもしれない。その後離婚することになるが、別れた父の面倒をみて、再婚にいたるには母なりの考え方が貫かれていた。
どんなにバカにされても、怒られても、殴られても、小言をいいながらも父に対する気遣いを忘れない。頼って来る相手に応えてあげたいと思う気持ちこそが、母の生活の原動力だった。
まったく性格の異なる二人だったが、夫婦でいることでバランスを取っていたのかもしれない。