「上司のひと言をさらっと聞き流せない」「ゆらいでしまう自分を変えたい」「気づけば自己否定でまとめてしまう自分がいる……」――。
こうした状態は「いのちの泉が枯れている」場合が多いと著者の稲葉俊郎さんは言います。稲葉さんは西洋医学だけでなく、東洋医学や代替医療、心理学も修めた医師です。
治療現場や旅先での出会い、温泉、演劇、アート、本などを通して、「いのちの力」がよみがえる方法を、著書『肯定からあなたの物語は始まる 視点が変わるヒント』より抜粋してお届けします。
肯定からあなたの物語は始まる
時が満ちると 飽和して
パチンと弾ける
それは終わりではなく
よみがえりのとき
私の人生が大きく変容したときのことを振り返ってみたい。それ以前の私は本当に過酷な医療現場に身を置いていた。解決すべき課題は絶え間なく湧き続け、出口のない迷路が自己増殖しているようだった。シャボン玉の中に空気を入れ続ければパチンと弾ける。糸を引っ張りすぎればプツンと切れる。シャボン玉は割れた。糸は切れた。
ただ、その現象を広い視野で見てみると、シャボン玉という球体からの解放であり、糸という一次元からの解放でもあると言える。つまり、終わりではなかった。
私は、強く決意して休みをとった。20年間の医療現場で背負い続けた重い荷物を下ろすように。
休んだといっても特にあてはなかった。「何かをする」ことばかりしていた人間にとって、「何かをしない」ことが大事だったのだろう。予定で埋めつくされていた毎日から、空白の時間を得た。
空白の時間に身心を浸すように時を過ごす。そこは空白という名の温泉のようだった。体も心も少しずつポカポカとしてくるのがわかったのだ。何かが染み込んでくる。空白に浸される時間は、ただ何もしないだけの時間ではなかった。体と心に純白が満ちてきた。無限の白が心身を洗浄し漂白し浄化していったのだ。空白の時間は、私の中にある不純物を、せっせせっせと洗い流してくれていた。
ちょうど「熊野に行かないか」と友人から誘われ、ふと、私は旅に出た。熊野に行ったことはない。特にあてもない。ただ、熊野は「よみがえり(蘇り)の地」と言われていることだけを知っていた。「よみがえる」ということは、何かが死んで何かが生まれることだろう。「黄泉(ヨミ)、還(ガエ)り」とすれば、私の一部があの世に旅をして、この世へと帰還してくることでもある。何がどう「よみがえる」のか、自分自身で試してみたかったのだ。
熊野古道を歩き、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)を巡り、日本最古の共同浴場とも言われる湯の峰温泉(つぼ湯)にも入った。私は夢遊病のように夢と現のあわいを旅した。朝に太陽が昇ったら起きる。食べたら歩き、食べたら歩き、歩き疲れたら温泉に入る。太陽が沈んだら眠る。立場も役割もなく、ただ川を流れる水のように。私の脳という司令塔が指示して歩いているというのではなく、私の体がおのずから歩いていた。いのちが、よみがえり始めていた。
“よみがえり”は未来を見ている人に起きる
熊野本宮大社では、例大祭が行われていた。多くの人でごった返す中で、厳かで壮麗な祭りを見た。
「なぜ熊野にお越しになったのですか」
かたわらにいた宮司さんが、私に声をかけた。
「私は自分のためにすべてを断ち切って休みをとりました。熊野はよみがえりの地とも言われていますね。何がどうよみがえるのでしょうか。思わず熊野にひきつけられ、ここに来ていました。熊野に詣でることで、よみがえりは本当に起こるのですか?」
「よみがえりは起きます。ただ、すべての人に起こるわけではありません。未来を見ている人だけに、よみがえりが起きます」
その言葉を聞いて、厚い雲からサッと光が差した心地がした。出会うべき言葉と出会うために旅をしているのだと思った。自分の中にありながら奥にしまい込まれて引き出すことができなくなった言葉が、土地と人の力によって輪郭を与えられた気がした。出会うべき言葉は外側からやってきたように見えるが、それは内側からも浮かび上がってきている。人と人が出会うように、言葉も外側と内側でおたがいに引きあうことで出会うのだ。
これまでのすべての時間が自分をつくり、体と心の歴史となる。過去の地層の上に自分が立っている。過去のことをいろいろと思い悩むのではなく、次に進むためには未来を見る必要がある。
私は誰と共に時を過ごし、私はどう生きたいのか。未来は常に未確定であり、すべては空白である。ただ、その空白にしっかりと目を向け、歩んでいく。現在の私がするべきことは、未確定の未来へと目差しを向けることだ。未来を見て、現在の歩みを続けるとき、そこに「よみがえり」が起こる。
過去を否定するのではなく、誰かを否定するのではなく、自分自身を否定するのではなく。
肯定から、あなたの物語は始まる。