ワールドシリーズ2連覇を成し遂げたロサンゼルス・ドジャース。11月3日にドジャースタジアムにて開催された優勝セレモニーで最初に入場したのは、ワールドシリーズMVPを日本人投手で初めて受賞した山本由伸選手だった。
著書『叱らない時代の指導術 主体性を伸ばすスポーツ現場の実践』で、山本由伸選手をオリックス入団時に支えた堺ビッグボーイズ代表の瀬野竜之介氏について綴っているジャーナリストの島沢優子さんが、山本選手が偉業を成し得た理由を伝える。
2日前に完投した山本の姿がブルペンに
あのノートには何が書かれていたのだろうか。
ドジャースがブルージェイズと18回の死闘を繰り広げたワールドシリーズ第3戦。17回途中、山本由伸がやにわにブルペンへと向かった。目の前を通り過ぎる山本や通訳らをダグアウトで見送った佐々木朗希が、「マジ?」と誰かに尋ねた場面をテレビの生中継で見かけた人は多いだろう。
山本が登板準備を始めたのだ。
第2戦で105球の完投勝利を挙げてから中1日しか経っていないのに。そう誰もが驚いたに違いない。NHK地上波の生中継で解説を務めた田口壮も「ロバーツ監督、すごいことするな」とまさかの展開に唸るしかない。
山本が去った後のダグアウトを、カメラがとらえた。
無人のベンチに黒い表紙の厚めなコイルノートと、赤と黒らしき多色ボールペンが一本転がっていた。
「矢田修がどれだけすごいか」
結果的にフリーマンの劇的なサヨナラ本塁打によって強行は避けられた。そして、試合後の会見で登板は山本自ら志願したものだと私たちは知らされる。試合後のサンケイスポーツデジタル版の報道(「こういう試合で投げられるよう何年も練習」山本由伸、中1日の救援準備明かす「矢田修がどれだけすごいか証明」=10月28日17時15分配信)の一問一答で、こう話している。
「こういう試合で投げられるように何年も練習してきたので。19歳のときは何でもない試合で投げて、そこから10日間くらい投げられなかったりしたんですけど、そこから何年も練習してこういったワールドシリーズで完投した2日後に投げられるような体になっているのはすごく成長を感じました」
加えて、その成長を支えたのは、8年間にわたってサポートを受けてきたトレーナーの矢田修だったことを熱弁した。2016年ドラフトでオリックス・バファローズに4位指名された翌17年。プロ1年目から矢田には2024年のドジャース入り以来、大阪府内で接骨院を経営しながら日米を往復してもらっている。
「本当に何でもない試合で1軍で5回を投げて、パンパンだったところから翌日でもビュンビュン投げられるようにならないとダメだぞと(矢田から)言われながら。そういうところを目指してやってきたので、きょうはやっぱり矢田修という男がどれだけすごいかを改めて(知った)」
筋力トレーニングを課さない異端のトレーナー
矢田は日本のトレーナー界においては異端な存在だ。山本に対し、バーベルなどの道具を使用したパワー系の筋力トレーニングを課さない。フレーチャという器具を用いたやり投げトレーニングなどを続け、右腕を大きく引き伸ばして投げるピッチングフォームをつくり上げた。
この独特の投球フォームについて、筑波大学体育系教授で打撃・投球などの動作分析の研究者として著名な川村卓(たかし)に尋ねると「彼の投げ方は一見すると『アーム投げ』に映るのです。これは日本ではあまり良くないとされてきましたが、理屈からいえば体の力がそのまま手に伝わるので効率的です」と説明してくれた。
「基本的に投手は肘、肩甲骨を使って体をしならせてボールを投げるのですが、それを山本投手の場合は腰や胸を使って体幹全体でしならせているのが特徴です。こうすることによって肘や体全体への負担が少なくなり、より(現役選手として)長く投げられる可能性があります」
178センチ80キロの体から
MLBでは大谷翔平やダルビッシュ有などパワフルな190センチ級の大型ピッチャーが多い。パワー系の筋トレをして筋肉を大きくすれば、それを維持するためのエネルギー消費が増加する。筋量が増えた分、体重は重くなり、それを支える膝や腰、肩や肘といった関節に当然ながら負荷がかかる。
さらに言えば、心臓にも負担がかかる。しかし、恵まれた体格の彼らは、シーズン前に自分を追い込み、体のケアを怠らず、負荷によるダメージと付き合いつつストイックに選手生活を送る。
対する山本は178センチ、80キロと小柄だ。それなのに150キロ台後半の球速と、たぐいまれなコントロール力を併せ持つ。それは矢田のもと、筋トレではなく投球フォームとバランスを重視したトレーニングを続けてきた賜物だろう。川村が分析したように「肘や体全体への負担が少ない」投げ方を、自分の体格に合わせた独自のやり方で進化させた。負担が少ないからこそ、今回のような連続登板を実現させたと思われる。
そもそもピッチングは一球だけなら無酸素系の運動だが、複数投げれば長時間の反復運動になる。例えばひとつのイニングで球数が増えると、ピッチャーが肩で息をし始めることに私たちは気づかされる。ああ、きつそうだな、大丈夫だろうかと心配になる。ピッチャーは他のポジションよりも有酸素系トレーニングの必要性は大きい。
オフにはもっとつらいことをやっています
そういえば、山本が肩で息をする場面は他の投手より少ないように思う。山本が「凄い男」と褒めちぎった矢田は、最終戦後にグランドでの短いインタビュー(日本テレビ系『Going!Sports&News』11月2日)でこう述べた。
「(山本は)オフにはもっとつらいことをやっていますから」
参考:2018年からオリックス・バファローズのトレーナーをつとめる鎌田一生さんのYouTubeには山本由伸選手以外にも多くの選手のトレーニングが多くアップされている。中でも山本選手については「山本由伸:150キロ中盤の剛速球の秘密」と題してやり投げ以外にも恐るべき身体能力を見せるブリッジやヨガのシーンも見られる。
矢田の言葉どおり、山本は日々有酸素系トレなどをこなすことによって、中0日でも登板できる体を作ってきた。彼の19歳からの8年間は、ドジャースでワールドシリーズ連覇を遂げるためだったに違いない。今回の山本の活躍によって、MLBスカウトは日本人選手、特に投手に対する見方が変わるかもしれない。
たった8日の間に3試合登板して235球を投げ、防御率1.02。4勝のうち3勝を挙げた。第3戦は上述したように投げる機会はなかったが、ブルペンでしっかり肩をつくった。チームが勝った全試合でボールを握った。
「山本はメンタルが強いからできた」と語る向きもある。無論弱くはないだろう。だが、この離れ業は「相手に打たれない用意周到な準備をしてきた」事実が生んだものに違いない。「山本の235球」は、精神論より科学で語られるべきだ。
小柄でケガしやすい日本人をサポートする繊細な技術
ところで矢田ら日本人のトレーナーの価値は、ワールドシリーズMVPを獲得した山本の活躍でますます耳目を集めそうだ。MLBには以前から数多くの日本人が活躍している。ごく一部ではあるが名前を挙げると、ドジャースはアシスタントアスレチックトレーナーの中島陽介、野茂英雄の専属トレーナーだった渡辺誉らがレイズに。ダイヤモンドバックスには、MLB初の女性トレーナーで元中日の谷沢健一の長女である谷沢順子が所属する。彼らは試合こそ出ないが、日本選手と同じように異国で勝負している。
この傾向は、サッカーも同様だ。海外クラブで活躍するメディカル、もしくはアスレチックトレーナーは増えている。
実はその草分け的存在となる遠藤友則を長期取材したことがある。2016年まで16年間、ACミランで日本人初のメディカルトレーナーとして所属。インザーギ、シェフチェンコ、ガットゥーゾ、マルディーニといった名選手たちを支えた。バロテッリがねん挫をしても治療しないままプレーする姿をみてきた。
「彼らは凄い筋肉を持っている。マシュマロのように柔らかい筋肉の選手もいた。どの国の選手も日本人に比べものにならないほど頑丈な体だった。だからケガしにくいしケアしなくても治るのではないか」と遠藤は言った。しかし、逆に考えれば、ケアする側は技術を磨く意識が希薄になりがちだ。
それに対し、体が小さくてケガをしやすい日本人をサポートする日本のトレーナーは探究心が高いと遠藤はみていた。ひ弱な日本人をサポートするからこそ、繊細で的確な技術を磨けるという「逆転の発想」だ。トレーナーは「日本人に向いている職業だと思う」と遠藤は言い切った。
弱みは強みに変えられる。
このことをアスリートとして体現してくれたのが、山本だろう。山本のノートには、試合の作戦や気をつけるべきことなどが書き連ねてあるそうだ。勝負し続ける矢田のもとで培ったあくなき探究心が、黒いノートの中に息づいている。
(敬称略)