宝塚音楽学校の「小さな慰霊碑」
兵庫県宝塚市は「宝塚歌劇団」の本拠地である。阪急宝塚駅を降りるとヨーロッパ風の外観を持つ宝塚大劇場や宝塚ホテル、そして若い女性達がスターを目指して技術を磨く、宝塚音楽学校などが立ち並んでいる。
この宝塚音楽学校の駐車場内に小さな慰霊碑がひとつ建っている。あまり目立たない場所にあるが、この慰霊碑は今から70年近く前、宝塚大劇場の公演中に事故死したある若い団員を偲んで建てられたものである。
宝塚大劇場で死亡事故が発生したのは1958年(昭和33年)4月1日の18時25分頃であった。
劇場ではこの日「春の踊り 花の中の子供たち」という花組の舞台公演が行われていた。本作は宝塚を代表する劇作家・高木史朗が演出をつけた公演であり、会場には3000人を超える観客が詰めかけていた。
だが、そんな大盛況の裏で宝塚は東西それぞれが内部の問題を抱えていた。
まず、東京都千代田区の東京宝塚劇場では、香淳皇后陛下、皇太子殿下(現・上皇)らが観劇される天覧公演が予定されていた。通常の天覧公演ならば団員たちも実力を発揮しやすかっただろう。
しかし、この日の公演はいつもと状況が違っていた。
というのも東京宝塚劇場では、この年の2月1日に演出のために使った裸火が背景幕に引火したことで火災が発生。劇場の一部が焼かれ、出演者3人が死亡する痛ましい事故が発生していた。4月1日は火事の修復作業が終わったばかりで、再開演して間もない劇場はかつてないほどの緊張感に包まれていたのだ。
一方の兵庫県宝塚市の宝塚大劇場では、この日の公演「春の踊り 花の中の子供たち」に出演予定だった娘役が病気で休演してしまい急遽、別の団員が代役を勤めることになっていた。
代役となったのは月組の香月弘美(芸名、かつきひろみ)という21歳の新人団員だった。
不幸にもこの彼女が、宝塚の歴史に残る大事故の被害者となってしまう。
舞台裏に響く女優の悲鳴
「春の踊り 花の中の子供たち」はいくつかのパートに分かれており、香月が出演したのは第12幕の「トランプの国の宮殿」という演目だった。劇中のトランプ国では、王様の独裁政治により恋愛が否定されており、恋人同士だったハートの8とハートの7は国から追放されてしまう。
このハートの8を演じた娘役が月組の香月弘美で、ハートの7を演じた男役が花組の松島三那子(芸名、まつしまみなこ)だった。同郷の彼女たちは親友同士であったというが、宝塚は組が異なると共演する機会がほぼないため、この日が初共演だったようだ。
宝塚に限らずだが、どの公演も1分1秒を無駄にできないスピード勝負である。ステージ下に移動するための昇降装置「セリ」を使う際も、完全に下に降りるまでゆっくり待つ時間はない。ある程度の高さで自らピョンと飛び降りる必要があった。
トランプ国を追放されるシーンに差しかかると、ハートの8とハートの7は姿を消すためセリへ移動した。
事故が起きたのはこの時だった。
「やめて…!」
悲鳴の主はハートの8を演じる香月弘美だった。
わずか13秒で…
香月のスカートがセリのシャフト(回転丸棒)に巻き込まれたのだ。そのまま身体を引き寄せられた彼女はまず右足をつぶされた。
さらにはスカートに仕込まれたスチール製のベルトもシャフトの餌食となり、回転に合わせて香月の腹部を尋常ならざる力で締め上げる。
松島はセリに同乗した親友が「セリに巻き込まれて怪我をした」と思い、「とめてー!とめてー!」と大声で叫びながら小道具部屋へ駆けていった。なお、この時すでに松島の背中には香月の血が付いていた。
そこでスタッフもようやく事故に気がつき香月の元へ向かったという。
駆けつけると、彼女の身体は真っ二つに切断されていた。即死だった。
香月が悲鳴を上げてから切断までわずか13秒ほどと推測されている。あまりに短時間の出来事に、セリに同乗していた松島でさえ最初は何が起こったのか理解できていなかった。
事実、松島は助けを呼んだ後、次の出番のため早変わり場へ向かっている。しかし直後に香月が胴体を切断されたことを知り、ショックで取り乱してしまったという。
演者の死亡によりこの日の公演は当然中止となった。
だが、不幸中の幸いと言ってよいのか、香月と松島の悲鳴は客席にまでは聞こえなかったようだ。それでも舞台の幕が慌ただしく閉まったこともあり、客席ではざわめきが広がり始めていた。
翌日から公演を再開
やがてこの日の責任者である宝塚歌劇団の課長が舞台の中央に立ち事情を説明。唖然とする客席からはショックを受けすすり泣く声も聞こえたという。
当然、松島だけではなく歌劇団の仲間や演出家、運営側も香月の死を悲しんだ。
だが、お客が待つ残りの公演を中止するわけにはいかず、事故の原因となったセリの使用を控え、代役を立てる形で翌日4月2日から公演を再開している。
つづく記事〈生きたまま胴体を切断された21歳の宝塚女優のために…血しぶきを浴びた親友がどうしても世間に伝えたかった「友の最期」〉では、事故が発生した宝塚歌劇団と親友の死を間近で目撃した松島三那子のその後を追う。
【参考文献】
・松島三那子『ヅカむすめのアメリカ日記』ひまわり社
・歌劇(宝塚クリエイティブアーツ)
・神戸新聞
・読売新聞
・朝日新聞
・週刊読売