本連載も、ついに50回を迎えました。これからも大阪のええとこ紹介します!
今回紹介するのは、大阪府の枚方(ひらかた)市立旧田中家鋳物(いもの)民俗資料館。全国で唯一、江戸時代の鋳物工場を見ることができる。昔風に言うと、随分「シブイ」資料館だが、いやいやかなり面白い。モノづくりの原点を体感できる資料館なのだ。
大阪・北新地駅からJR学研都市線に乗って約40分。藤阪駅に到着すると、豊かな緑が広がっている。近くには、日本に漢字や儒教をもたらしたとされる百済の学者・王仁(わに)氏のものと伝わる墓や、王仁氏の名前にちなんだ王仁公園がある自然豊かな地域だ。
釣り堀池を右に見てなだらかな坂を上がっていくと、黄土色の土壁に濃茶色の格子窓がモザイクのように配置された建物が目に入った。
これが、全国で唯一残る江戸時代の鋳物工場、旧田中家鋳物民俗資料館だ。
鋳物とは何か?
鋳物とは、金属を高温で溶かして土や砂などで作った型(鋳型)に流し込み、冷やして作る製品のことだ。弥生時代の銅鐸(どうたく)や銅矛(どうほこ)が鋳物の始まりと考えられていて、後に仏像や貨幣なども鋳物で作られるようになった。
枚方市で出土した最も古い青銅製の鋳造品は、小型の鏡。弥生時代後期のもので、鷹塚山(たかつかやま)遺跡から出土した。この他、奈良時代の銭貨や平安時代の鏡など、古くから鋳物が使われてきたことがわかる資料を、資料館で見ることができる。
民俗資料館となっている田中家の鋳物工場と主屋は、かつて淀川沿いの高台、現在の枚方市枚方上之町(かみのちょう)にあった。近くには、東海道品川宿から数えて56番目の宿場町、京都と大阪を結ぶ三十石船の中継港として賑わった枚方宿(ひらかたしゅく)がある。
鋳物師(いもじ)田中家とは?
田中家はこの地で代々鋳物業を営み、梵鐘(ぼんしょう)や半鐘、鍋や釜などの日用品、犂(すき)サキなどの農具を作っていた。1796(寛政8)年に田中家が鋳造した梵鐘は現在も残っていて、枚方市の有形文化財に指定されている。
江戸時代、朝廷の役人である真継(まつぎ)家より鋳物師職許状や大工職許状を与えられた田中家は、それなりの規模で鋳造を行っていたと推察される。
1790(寛政2)年の資料「星田慈光寺鐘鋳日記」によると、慈光寺の梵鐘を作るに際し、約2か月半で42人が携わったとある。うち2人が田中家の当主と跡継ぎ、9人が鋳物職人(うち2人は数日だけの参加)、鋳型のタガ締めに桶屋1人、蹈鞴(たたら=足で踏んで空気を吹き込む大型のふいご)の設営に瓦屋が1人、溶けた金属を型に流し込む鋳込みの日には、料理屋が2人(人が集まるので食事を作ったのだろう)。
残り27人は、蹈鞴踏みや鋳込みの日の手伝いとして、近くの農家の人々が臨時で働きに来ていたようだ。江戸時代の家内制手工業的な鋳物工場の様子が、ぼんやりと浮かび上がるようだ。
江戸時代唯一の鋳物工場が残った理由
それにしても、なぜ田中家が全国唯一の江戸時代の鋳物工場として残ったのだろう。
江戸時代、北河内で唯一許状を得た鋳物師だった田中家だが、明治の終わり頃になると、犂サキやヘラと呼ばれる農機具を主に作るようになっていた。これらの製品を作るのには、伝統的な工法で事足りたのだろう、大規模な鋳物生産地であれば、製法を変えたり違う製品を作ったりと近代化を進めたと思うが、その必要がなかった。
1940(昭和15)年頃に足で踏んで空気を送っていた蹈鞴を機械送風にするなど、多少設備を新しくしたという記録はあるが、1960(昭和35)年頃に廃業するまで田中家の鋳物工場は、ほぼ江戸時代のままだった。
田中家の鋳物工場は、1973(昭和48)年、大阪府の有形文化財に指定後枚方市に寄贈され、翌年から移築復元工事が行われた。同じ敷地内にあった主屋も続いて大阪府有形文化財に指定・枚方市に寄贈、藤阪に移築され、現在の旧田中家鋳物民俗資料館としてオープンしたのは1984(昭和59)年のことだ。
各所に熱を逃す仕組み
資料館の中に入ると、正面に細長い円柱が見えた。これが甑(こしき)と呼ばれる金属を溶かす溶解炉だ。鉄芯で補強した粘土の輪を積み重ねたもので、中に金属と木炭やコークスなどの燃料を交互に入れ、風を送り込んで金属を溶かす。
金属は種類によって溶ける温度が違うが、およそ1000度以上の温度が必要となる。その熱を逃がすため、甑の上部の屋根には風袋(ふうたい)と呼ばれる大きな換気孔が設けられている。
天井を高くし、暑さを和らげようとしたのだろうか。天井板がなく、天井裏の竹材を見ることができる。
重労働だった蹈鞴(たたら)踏み
甑に風を送る蹈鞴(たたら)は、踏み板の両端を人が交互に踏んでシーソーのように動かし、風を送る。一度踏み出したら数時間はぶっ通しという作業で、交替で作業したのだろう。甑との間に壁が設けられているとは言え、かなりの高温の中での作業、重労働だったに違いない。
館内は鋳物の歴史や伝統的な鋳物技術の他、田中家の歴史や溶けた金属を流し込む鋳型づくりの工程などを展示。現代の鋳造製品である自動車のエンジンや水道の蛇口、マンホールなども展示されていて、江戸時代から現在に至るまでの鋳造の歴史や技術がわかりやすく説明され、モノ作りの歴史を辿ることができる。
今も昔も、子どもはもちろん大人にとっても工場見学は面白く、それが江戸時代の工場というのだからなおさらだ。また、敷地内にある体験工房では、鋳物作りやガラスを溶かして工芸品を作るバーナーワーク、彫金などの講座を開催、モノ作りの楽しさを体験できる機会を提供している。
同時期に建てられた主屋も必見
鋳物工場の正面には、田中家の人々が暮らしていた主屋がある。こちらは1739(元文4)年より前に建てられた建物で、300年近い歴史を誇る。当時としては珍しい瓦葺きの屋根で、鋳物工場が隣にあったため防火のために瓦が使われている。
家の間取りは周辺民家とほとんど変わらない「田の字型」で、内部には糸繰り機や機織り機、飯びつや藁(わら)で編んだ飯ふご、かまどなどの昔の生活用具などを展示している。
弥生時代の竪穴式住居も
旧田中家鋳物民俗資料館には、枚方市の田口山(たのくちやま)遺跡から出土した弥生時代中期の住居跡を基に復元した竪穴式住居もある。この隣には、同じく枚方市長尾西遺跡から出土した弥生時代後期の遺跡もあり、側面に板を張り巡らせたと考えられる木材が火災のため屋内に倒壊、炭化した状態で出土したものを、保存処理の後移設した。
時代はバラバラやけど、とりあえず歴史あるもんを一緒にしとこか、というのも大阪っぽく、どこかほのぼのする。
京都や奈良にも近く、『日本書紀』にも「比攞哿駄(ひらかた)」と記されているように、古くから名前が知られていたと思われる枚方は、渡来人との関わりも深い。
難読地名で全国区になるだけではなく、歴史の厚みや奥深さでも是非、全国区になって欲しい。
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枚方市立旧田中家鋳物民俗資料館
〒573-0155 大阪府枚方市藤阪天神町5−1
電話:050-7105-8097
開館時間:9:30~17:00(入館は16:30まで)
休館日:月曜(祝休日の場合は翌日)/12月29日~1月4日
入館料:無料
※体験工房での講座の詳細や申込は下記ウェブサイトより