2025年上半期、第173回芥川賞の候補に『トラジェクトリー』が選ばれ、大注目されている、グレゴリー・ケズナジャットさん。
1984年生まれの著者は、英語を母語としながらも日本語で小説を執筆する作家です。2007年、クレムソン大学を卒業ののち、外国語指導助手として来日。2017年、同志社大学文学研究科国文学専攻博士後期課程修了し、現在は法政大学にて准教授を務めています。2021年、「鴨川ランナー」にて第2回京都文学賞を満場一致で受賞し、デビュー。2023年には「開墾地」で芥川賞候補に。
著者の小説の原点はどこにあるのでしょうか。それが感じ取れる初めてのエッセイ集『言葉のトランジット』が、2025年8月21日に刊行となります。
旅に出かけ、いくつかの「言葉」というレンズを通して見えてきた景色とは……。
24のエッセイから、一篇を特別に抜粋して公開します。
大好評だった前回のエッセイ『日本在住の英語話者コミュニティー独特の症状「マイジャパン症候群」をご存じですか?』も必読です。
音読
僕は視力が絶望的に低い。朝から晩までつけているコンタクトレンズを外せば、顔から数センチ離れた文章すら読むことができない。だが、小学校五年生になるまではちっとも自覚がなかった。自分の視界しか知りようがないから、世界は誰が見ても、朧気な形と柔らかな色によって形成された集合体なのだと思っていた。黒板に書かれた文字を読み取ろうと、前かがみになって目を細めている僕に気づいてくれた先生に保健室まで連れていかれ、視力検査を受けさせられ、初めて眼鏡をかけた時の衝撃は大きかった。ものの輪郭はこんなにはっきりとしていたのか。世界はこんなに硬そうなものだったのか。
視力の低さは先天的なものなのか、成長とともに現れたものなのか、今や判断のしようがないが、母に言わせると原因は小さい頃に本を読みすぎたから、と明確だ。しかも暗い部屋で本を読んでいて、本を読む時は電気をつけなさいと何度も注意したけれど、聞いてくれないからこんなことになったのよ、と悲しそうに頭を振りながら言う。
小さい頃に本をたくさん読んでいたのは間違いない。図書館を歩き回って、低い位置から書架を見上げていたことは辛うじて覚えている。貸出は五冊までと司書に言われ、受付まで運んできたたくさんの本の中から五冊を慎重に選んでいた記憶もある。それで目を悪くしたという母の主張はさておき、自然に本というものに惹かれて、就学前から読書に耽っていたのは確かだ。いつも床の上に開いた本を前に胡座をかき、ゆっくりとページの上の言葉を声を出して読み上げていた。
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視界と同じように、読書の感覚は人それぞれで、比較対象がなければ相対化できない。たとえば自分は本を読むのが遅いほうだが、これも気づくまでは時間がかかった。中学校や高校で、日本の「国語」に当たるアメリカの「英語」科目で多くの作品を読まされていたから、クラスメートとペースを比較する機会はあったはずだが、長時間本を読み続けることが苦ではなかったからか、読むのが遅いと実感することはなかった。
周りの人のほうが読むペースが速いことをようやく発見したのは、大学で文学科目を受けた頃だった。高校の必修科目と違って、大学の文学講義はスピードを求められ、毎週新たに一冊の課題作品を読まなければならなかった。シラバスについていくだけで睡眠時間を削っていたが、そこに参考書や資料を読む時間を加えると、優に僕のキャパシティーを超えた。
読むスピードを向上させる方法はないか、調べてみた。すると同じアドバイスに何度も出合った。文章を速く読むポイントは、音読しないこと。たとえ声を出して読み上げなくても、人は頭の中で「読み上げ」がちだが、その衝動を抑え、本格的に「黙読」を徹底しなければならない。言葉が持つ物質性をなるべく考えないで、意味や概念で内容を捉えれば、文章を読むペースが上がり、理解度も高まるという。
言われてみればなるほどと納得する。試しに実践してみると、最初はなかなか慣れないけれど、練習すれば確かに速くなりそうだ。しかし言葉の物質性をないがしろにし、意味だけを優先する読み方は、なんだか味気なさ過ぎるのではないか。
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僕はあまり料理をしない。肉や野菜を切ったり刻んだりするのが苦手だし、火の加減も味付けもよく分からず、冷凍食品や出来合いのお惣菜を食べないで簡単な炒め物を作っただけで、ああ今日は本当によく頑張ったと、達成感を覚える。料理する習慣を身につけ、ちゃんと継続的に練習すれば、そこそこ腕は上がるだろうが、問題は、そもそも食事に強い執着がないことだ。美味しいものは美味しくいただくのだが、わざわざ時間と手間をかけて料理を作ろうという気にならない。安くて短時間で必要なカロリーが摂れれば、それで十分だと思ってしまう。
料理に対するこの感覚は、おそらく多くの現代人が言葉に対して抱いている感覚と似ているのではないか。言葉を味わったり、「美味しい」言葉を作ったりすることに、限りある時間をあえて費やしたい人は何割いるのだろう。教育現場でも、効率的かつ分かりやすい書き方が教えられている。不要な言葉は省略しよう、曖昧な表現は最小限に、意味がはっきりと伝わるスタイルを目指すべきだ、と。言葉はあくまでコミュニケーションツールだ、という妙な常識が蔓延している。無駄のない、消化しやすい、標準化された言葉がどんどん量産されていく。
グルメ気質の現代社会では、一日三食を栄養補助食品で済ませることを物足りなく感じる人は多いだろうが、同じくらい無味で合理的な言葉なら、許されるばかりか、むしろ賞賛される。
日本語を読み上げる快楽
母語の英語でも文章を読むのが遅いが、日本語となると倍遅くなる。幼い頃に習得した英語とは違い、日本語に出合ったのは十四歳の時だ。若いといえば若いが、脳が新たな言語体系を自ずと組み込める時期はとっくに過ぎた年齢だ。それから二十六年間、日本語とともに過ごしてきて、この言語も自分の一部になってきたけれど、一方で今でも自分と日本語との間には一定の距離を常に感じ、その距離は読み書きするスピードをさらに遅くする。
言葉を単に意味や概念を伝えるための道具と考えるなら、第二言語で本を読んだり文章を書いたりする利点は見えにくいだろう。第二言語を使うと意味を干渉し得るものが増え、曖昧さが増し、ディスコミュニケーションの可能性が高まってしまう。物事の輪郭が、少し柔らかくなってしまう。言葉の効率化とは相反する行為だ。
だが言葉に求めているのが情報伝達ではなく、物質性であれば、第二言語の魅力が見えてくる。第二言語だと、無意識に言葉の音や形を無視して、概念に還元することはない。言葉が単なる意味の容器になって、透明な存在になることもない。読む時も書く時も、一字一句をじっくり味わいながら進んでいく。
昔受けた日本語の授業で、声を出して一行一行読み上げた時の快楽は今も忘れられない。ほぼ毎朝、目が覚めて最初にするのは、本棚からお気に入りの小説を手に取り、十~二十分程度、音読することだ。声を出して、ゆっくりと読み上げて、息を感じ、声帯の振動を感じ、一つ一つの言葉を作り上げる唇や舌の感覚を楽しむ。関係代名詞を軸にして急旋回する英語と違い、動詞に向かって滝のように流れていく独特のリズム、くっきりとした母音の舌触り。読んでいる間は翻訳不可能な、文字ですら表現しきれない言葉の身体的要素を意識せずにいられない。
この快楽は、幼い頃絵本を読み上げていた時のものとさほど変わらないだろう。ページをめくるのは遅いかもしれないが、高速な黙読よりずっと充実した読み方だと感じる。
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音読するのと同様に、オーディオブックや朗読の録音も日常的に聴いている。電車に乗ったり、通勤路を歩いたりする間はだいたいイヤフォンから流れてくる小説に没入中だ。以前はジムでも聴いていたが、ある日、ベンチプレスの最中に『痴人の愛』の面白い場面が流れたせいで思わず吹き出してしまい、危うく死にかけたことがあって、それ以来、運動中は音楽だけにしている。
オーディオブックや朗読などは、優れた技術を持つ声優が行う。言い間違えたり、言葉に窮したり、嚙んだりすることはもちろんない。流れてくる声は、物質性を持つものの、それは磨かれた、非常に滑らかなもので、聞き手はその流れに乗ったまま、摩擦を感じることなく進んでいく。まるでまじないに耳を澄ましているような気分になる。
去年、初めて自作をオーディオブック化してもらうことになった。もとからのヘビーユーザーとしては大変嬉しいことではあったけれど、それと同時に、不思議な体験でもあった。
オーディオブックのデータが仕上がると、原作者として最終確認を行うことになった。いったん手放した作品はしばらく読み返したくない僕としては、あまり気が進まない作業だったけれど、頼まれた以上、一度最後まで聴かないといけない。イヤフォンを耳につけて、微かに顔を顰めながら、再生ボタンを押した。
声優の、心地よい声が耳に流れ込んできた。聞き覚えのある言葉だ。しかし、自分の書いた言葉とは、どこかが違う。言葉自体は変わっていないのに、別の人の肉声を纏い、力強く、滑らかに発声されると、まるで他人の言葉のように聞こえてくる。その声を耳にしながら、書いた時の状況を思い出す。数週間かけて推敲に推敲を重ねた箇所はたった数秒で軽く流れていく。深夜の執筆で、とっさに書き上げた一行は、かえって深い意図を託されたかのように、重要なくだりに聞こえてくる。自分自身で自分の作品をどこまで理解しているのか、一瞬分からなくなる。
朝起きて、お気に入りの小説のページをめくって読み上げている時に、この体験を思い出すことがある。その際に僕の喉から発せられている声は、誰のものなのだろうか。自分自身のものなのか、それとも作者のものなのか。あるいはどちらにも属さない、最初から言葉にあったものが聞こえてくるだけなのか。いまだに分からない。だがそれは単なる意味に還元できないものであるのは明らかだ。
〈初出:エッセイ「音読」:2024年10月20日/群像web〉