「凄まじい破壊力」はどこから生まれるのか?
核分裂の発見(1938年)から原爆投下(1945年)まで、わずか6年8ヵ月。「物質の根源」を探究し、「原子と原子核をめぐる謎」を解き明かすため、切磋琢磨しながら奔走した日・米・欧の科学者たち。多数のノーベル賞受賞者を含む人類の叡智はなぜ、究極の「一瞬無差別大量殺戮」兵器を生み出してしまったのでしょうか。
近代物理学の輝かしい発展と表裏をなす原爆の開発・製造過程を、予備知識なしでも理解できるよう解説したロングセラーが改訂・増補され、『原子爆弾〈新装改訂版〉 核分裂の発見から、マンハッタン計画、投下まで』として生まれ変わりました。
1945年8月6日に、人類史上初めて核兵器が実戦投入されてから80年。広島と長崎を襲った悲劇は、なぜ生じてしまったのか?
当時も今も、世界で最も有名な科学者であるアインシュタインがその一端を担ってしまった「負の歴史」の裏側をたどります。
*本記事は、『原子爆弾〈新装改訂版〉 核分裂の発見から、マンハッタン計画、投下まで』(ブルーバックス)を再構成・再編集したものです。
本記事の執筆者 山田 克哉(やまだ・かつや) 【ブルーバックスを代表する人気著者の一人】米国テネシー大学理学部物理学科大学院博士課程(理論物理学)修了。Ph.D.。元ロサンゼルス・ピアース大学物理学科教授。アメリカ物理学会会員。講談社科学出版賞を受賞。詳しくはこちら。
「ハンガリー3人組」の悲壮感
1939年頃のアメリカには、ともにハンガリーからやって来たユダヤ人物理学者レオ・シラード(1898~1964年)と、ユージン・ウィグナー(1902~1995年)の二人がいた。さらにもう一人、やはりハンガリーから渡米してきたユダヤ人物理学者エドワード・テラー(1908~2003年)もいた。
シラードは核分裂が発見される以前より、核分裂の連鎖反応と、そこから生じる膨大なエネルギーから、想像を絶するような強力な爆弾、すなわち「原子爆弾」の可能性を想像していた。シラードはしばしば、「もしナチス・ドイツが我々より先に原子爆弾を作ったらどうなるか? ヒトラーのヨーロッパ征服は原子爆弾の成功にかかっている」と、周囲に警告していた。
ドイツではすでに、アドルフ・ヒトラーが実権を握っていた。1939年4月、二次中性子が確認された頃、ヨーロッパでは戦争の気運が高まってくるとともに、核分裂連鎖反応に関する論文発表を差し控えるようなムードになってきた。
ドイツが原子爆弾の開発に乗り出すであろうことは誰もが容易に想像できた。
そうした中で、アインシュタインのいるプリンストン高等研究所に在籍していたウィグナーは、戦争と経済的な問題という観点から、もはや個人的なレベルでの核分裂連鎖反応の研究は難しくなってきており、軍事目的の核分裂連鎖反応の研究は、アメリカ政府の管理下に置かれるべきであると主張した。
そしてテラーは、のちに「水素爆弾の父」とよばれることになる人物である。
シラードとウィグナー、テラーの3人は、「ハンガリー3人組」を形成し、みなユダヤ人であることもあって、ドイツの原子爆弾開発を人一倍懸念したようである。
ハンガリー3人組は、その時点までの核分裂研究の成果と、それによって裏づけられた原子爆弾の可能性について、アメリカ政府に訴えるべきであると考えるようになっていた。
ドイツが原子爆弾開発を成功させる前に、連合国側が先んじて原子爆弾を手にする必要がある。これ以外に、ドイツの原子爆弾に対抗する手段はないーー。
彼らのこの願いには、一種の悲壮感が漂っていた。原子爆弾などという代物は当時、一般市民はもとより、政府関係者の間にも知られていなかった。ハンガリー3人組は、ドイツはおそらく、アフリカのベルギー領コンゴ (現コンゴ民主共和国)にあるウラン鉱山からウランを手に入れるだろうと考えていた(実際にそうであった)。
アインシュタインの手紙
シラードは、ベルリン大学で講師をしていた頃にアインシュタインと知己になっていた。
周知のように、アインシュタイン自身もユダヤ人である。プリンストン高等研究所にいたアインシュタインはすでに60歳になっていたが、彼のあの独特の風貌は世間一般に知れわたっていた。
アインシュタインを一躍有名にしたのは相対性理論であったが、彼は光子による光電効果の説明によって1921年にノーベル物理学賞を受賞している。著名なアインシュタインのことを、大統領を含む政府要人や軍当局が知らぬはずがない。
その当時はまだ、核分裂連鎖反応の研究に直接従事している科学者でさえ、第二次世界大戦中の原子爆弾の実現についてはきわめて懐疑的だった。ましてや、科学に従事していない人たちに原子爆弾の話を持ちかけても、簡単には理解してもらえないだろうし、たとえ理解したところで、そんな爆弾を開発する必要性と実現性をどこまで信じてくれるだろうか?
シラードは、大統領に原子爆弾の話を持ちかけるには有名な科学者を通す以外にないと考え、アインシュタインに白羽の矢を立てたのである。
シラードから一通りの説明を聞いたアインシュタインは、エンリコ・フェルミやシラードのそれまでの研究成果を知らなかったらしく、原子爆弾の可能性を知って大いに驚き、どんな援助も惜しまないことをシラードに約束した。
アインシュタインは1933年にベルギーを訪れており、その折にベルギー王妃の知遇を得ている。シラードは当初、ベルギーがドイツにウランを売るのを差し控えるよう、ベルギー王妃宛にアインシュタインに一筆書いてもらおうと思ったが、ウィグナーの 強い要望もあって、アインシュタインの手紙はフランクリン・デラノ・ルーズヴェルト大統領に直接渡したほうが効果的である、という結論に落ち着いた。
何が書かれていたのか?
その手紙には、それまでの核分裂連鎖反応の研究成果にはじまり、恐るべき破壊能力を持つ原子爆弾の可能性や、ドイツでもこの方面の研究が相当に進んでいる可能性があること、もしドイツが原子爆弾の製造に成功したら、この最新兵器を盾に世界征服を狙うかもしれないこと、これに対抗するためには連合国側、特にアメリカが、早急に国を挙げて大がかりな原子爆弾開発計画を打ち立て、ドイツよりも先に原子爆弾の製造に踏み切るよう努力すべきである、といった内容が綴(つづ)られていた。
シラードは、自身の手紙も添えたうえで、アインシュタインの手紙をルーズヴェルト大統領に渡してくれるよう、大統領の友人であるアレクサンダー・サクスという経済学者に委ねた。
1939年9月1日の午前4時45分、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻し、ヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発した。2日後の9月3日には、イギリスとフランスがこの戦争に巻き込まれていった。
しかし、ルーズヴェルト大統領がサクスを経由してアインシュタインの手紙を受け取ったのは、9月も下旬になってからのことである。
手紙に目を通したルーズヴェルトは一応、 ことの重大さを察しはしたものの、原子爆弾開発計画、いわゆる「マンハッタン計画」が発動されたのは、それから2年以上も経過した1942年(昭和17年)のことであった。
あまりにも平和主義者だったアインシュタイン
ここで一つ、特筆しておくべきことがある。
それは、アインシュタイン自身は、アメリカの原子爆弾製造研究に対し、まったく関与していなかったという事実である。「アインシュタインはあまりにも平和主義者であるとともに軍事的な問題に無頓着」として、マンハッタン計画にはいっさい関与していない。
さらに筆者は、たとえマンハッタン計画への加入を誘われていたとしても、彼自身が原子や原子核のような細かいレベルでの物理学にはあまり興味を抱いていなかったことに加え、子どもの頃から軍国主義をまったく受け入れなかったアインシュタインならば、勧誘を拒否したのではないかと考えている。
「原子爆弾の完成」は誰も信じていなかった
アメリカやイギリスの科学者たちがドイツの原子爆弾開発を懸念したのは、ドイツが敵国であるのはもちろんのこと、彼(か)の国の科学と技術が原子爆弾を可能ならしめるレベルにあると見ていたからである。
*このページからご覧になった方:ハンガリー出身のユダヤ系の若き科学者たちが動かしたアインシュタインについては、こちらからお読みになれます。
しかし、1940年当時、この戦争(第二次世界大戦)がいつ終わるにせよ、 ドイツが誇る俊英の物理学者・ヴェルナー・ハイゼンベルク(1901~1976年)がそうであった*ように、戦争終結前に原子爆弾が完成すると確信を持っている人は、誰一人としていなかった。
*参考記事:〈核分裂発見と大戦勃発の「奇妙な“時”の一致」…ドイツと日本が「マンハッタン計画」に及ばなかったわけ〉
「戦争という特殊状況」が果たした役割
すなわち、原子爆弾は“夢”の爆弾だったのである。
しかし、戦争という特殊な状況下にある以上、敵国の原子爆弾開発に無関心でいるわけにはいかない。アメリカ側はこの頃、イギリスでの「フリッシ= パイエルス覚書」をまだ知らなかったようである。
イギリス政府に提出され、正式に受理された報告書「フリッシ=パイエルス覚書」には、減速材を使わない濃縮ウラン(ウラン235)の高速中性子による連鎖反応について初めて記されており、原子爆弾の実現性を切々と訴えている。だが、イギリス政府はこの報告書を極秘扱いにしていた。
核分裂研究に関与していたアメリカの科学者たちは、アメリカ政府に原子爆弾製造を目的とする核分裂研究のための経済援助を呼びかけたが、説得力を欠き、思うような資金援助は得られなかった。
それでも、アインシュタインの手紙が功を奏したのか、1940年6月には「国防研究委員会」なるものが発足し、ルーズヴェルト大統領の指示によって、この委員会の下に「ウラニウム委員会」が設けられた。
国防研究委員会の会長にはヴァネヴァー・ブッシュ(1890~1974年。工学博士で、マサチューセッツ工科大学副学長)が、ウラニウム委員会の会長にはライマン・ブリッグス(1874~1963年。技術系の行政官)がそれぞれ就任している。
それでもなお、原子爆弾の実現性と、ドイツの原爆による脅威を、その道ではずぶの素人である政府関係者に説得するには時間を要した。これは決して、アメリカ政府が頑固で無知だったせいではない。核分裂研究の当事者たちですら、原子爆弾の実現に自信を持っていなかった当時、ずぶの素人に原子爆弾の話をしても、誰がまともに信じただろう?
やがて「マンハッタン計画」へ
そこで、核分裂研究に従事している科学者たちがたえずその研究成果を政府に報告することによって、原子爆弾の実現性を政府に確信させようとする案が考えられた。そのためには、研究状態やその成果を吟味し、検査する必要がある。
1941年の春、ワシントンDCで開催された恒例のナショナル科学アカデミー委員会の会議で、ウラニウム委員会会長であるブリッグスが、検査委員会を発足させるよう国防研究委員会会長であるブッシュに要請した。
ブッシュは、当時の科学アカデミー会長であったフランク・ジュウイット(1879~1949年)にその旨を報告し、これに応じたジュウイットは検査委員会を発足させ、その会長にアーサー・コンプトンを任命した。中性子発見に関する記事に登場したコ ンプトン散乱と、それによるコンプトン効果を発見したあのコンプトンである。コンプトンはその頃、シカゴ大学物理学科の教授職にあった。
コンプトンを会長とする検査委員会の委員の一人には、サイクロトロンの発明者であるアーネスト・ローレンスも選ばれている。
それにしても、これほどまでにドイツの原子爆弾開発を懸念しながら、アメリカはドイツの原爆開発の現状を探ろうとはしなかったのだろうか?
*
ルーズヴェルト大統領を動かそうとする企ての背景には、ナチス政権下で米国に逃れざるを得なかったユダヤ人科学者たちの活動がありました。そして歴史は、彼らが危惧したドイツの原子爆弾開発に対する諜報活動へとつながっていきます。
しかし、この諜報活動については、“ある謎”が残されています。そしてその謎は、やがて訪れる日本の悲劇と無縁ではなかったのかもしれないのです。
放射性元素の発見から原爆投下まで……。原子爆弾へと向かう人類叡智の歩み。シリーズ最新回は、こちらから
原子爆弾〈新装改訂版〉 核分裂の発見から、マンハッタン計画、投下まで
核分裂の発見から原爆投下まで、わずか6年8ヵ月ーー。
物理学の探究はなぜ、核兵器の開発へと変質したのか?
「永遠不変」と信じられていた原子核が、実は分裂する。しかも、莫大なエネルギーを放出しながら……。近代物理学の輝かしい発展と表裏をなす原爆の開発・製造過程を、予備知識なしでも理解できるよう詳しく解説する。