2024年10月、文部科学省が発表した調査によると、2023年度に不登校だった小中学生は34万6,482人。過去最多を更新し、11年連続で増え続けている。そんな中、小学校から中学校までの9年間、一度も学校に通わなかった男の子がいる。いじめや体調不良ではなく、「学校に行かない」と自分で決めた。そして、その気持ちを家族も受けとめた。子どもが学校に行かないとき、大人はどう関わればいいのか。どんな気持ちで、どんなふうに待てばいいのか。
連載「子どもの不登校と向き合うあなたへ~待つ時間は親子がわかり合う刻~」では、長年不登校や発達障害の親子と向き合ってきた相談員・池添素さんに、ジャーナリストの島沢優子さんが取材。不登校の子どもたちや家族の姿を伝えてきた。第19回は番外編として、6歳で「学校に行かない」と自ら決め、小中9年間を一度も登校せずに過ごした内田拓海さんを紹介する。内田さんは東京藝術大学音楽学部に進学し、現在は作曲家として活動している。子どもが学校に行かないとき、家庭ではどんな会話があったのか。親はどんな思いで見守ったのか。不登校の「その後」に目を向けることで、いま悩んでいる子どもや親にとって、何かヒントが見つかるかもしれない。内田さんの家族の言葉や具体的なエピソードを交えてお伝えする。
こうした親子の経験を丁寧に伝えてきた本連載は、多くの読者の共感を呼び、池添さんのもとにはさまざまな相談が寄せられている。そこで、この連載に大幅な加筆修正を加えた書籍『不登校から人生を拓く――4000組の親子に寄り添った相談員・池添素の「信じ抜く力」』(講談社)が、2025年9月4日に発売されることが決まった。発達障害や不登校などに悩む親子と40年以上向き合い、4000組以上の親子に寄り添ってきた池添さん。その高い専門性に裏付けられた実践と珠玉の言葉の数々を、ジャーナリスト島沢優子さんが取材し、まとめた渾身のルポルタージュ。不登校の親子だけでなく、子育てに迷うすべての人に贈る一冊だ。
6歳で学校に行かないことを決めた
この連載では、池添さんがかかわった不登校だった子どもたちにも話を聞いてきた。今回は番外編として、小、中学校9年間1日も登校しなかったのに、東京藝術大学音楽学部に合格し作曲家になった内田拓海さんのことを伝えたい。2024年に26歳で『不登校クエスト』(飛鳥新社)を上梓。同書を読んだ池添さんから「一例かもしれないけれど、親御さんたちの参考になるとても素敵な本だと思う」と感想が届いた。
子どもたちが不登校になるとき、学校に行った末に何らかの不具合があって行けなくなるのがほとんどだ。しかし、内田さんの場合は一度も足を踏み入れないまま「学校に行かない」ことを自分で決めた。実は保育園は途中退園している。絵を描いていたとき持っていたクレヨンを奪われたので奪い返したら、保育士から怒られた。自分が先にとられたと主張したが、聞いてもらえなかった。
その「理不尽な体験」が原因になり小学校に行かなかったのかと思いきや、内田さんは「それはひとつのきっかけかもしれませんが、実際は直観だろうと思います」と語る。
6歳の子どもが自分でこの選択をしたことに驚くが、母親が「学校、行く?」と尋ねたことにもびっくりした。意思を確認された拓海少年は「行かない」と答えた。そこで「そう、わかった」と慌てもせず本人の決定を尊重した事実には度肝を抜かれた。
内田さんは「学校に対してマイナスなイメージは何も持ってなかったんです。だって、一度も行ってないから情報がないですもんね」と言う。第一子でもあり、学校がどういうところかについて知る由はなかった。
私も2人の子どもの子育てをした。長男は内田さんと同じ1997年生まれだ。保育園年長組の9〜11月に自治体から就学時健康診断の案内が来るところから小学校入学への道が始まる。決められた日に親子で学校に足を運び、健康診断と面談を受ける。発達などに不安があればそこで話し合う。そうやって「学校は行くもの」と思い込み、有無を言わせず子どもを学校へ送り込んだ。
そんな大勢の動きに逆行するかのように、不登校で小中学時代を過ごし、通信制の高校を経て東京藝術大学に合格。その後大学院にも通い、作曲家になると数々のコンクールで受賞するまでになった。この逆転人生を取材に来た人たちから「両親がすごいのでしょう。よほど安心安全な家庭で育ったのでしょうね」と言われるそうだが、内田さんは「実態は逆ですよ」と明かす。
子どもは育てようとしなくても育つ
父親の職業は運転手。悪い人ではないけれど、夜勤のためかストレスが多く酒を飲むとかんしゃくを起こして暴れることは日常茶飯事だった。とはいえ、父親は小学生時代に両親が離婚しており、一時期不登校だったこともあるらしい。父親自身が複雑な人生を背負っていた。さらに内田さんの下には2人の妹がいて、生活は決して楽ではなく「家の中はカオスでした。どちらかと言えば、貧困家庭だったと思う」(内田さん)。
そんななか、母親はどっしり構えていたそうだ。日本にわずか1%と言われるクリスチャンで「子どもは自分が無理に育てようとしなくても、神様が健全に育ててくれる」と考えていた。宗教観から来るものなのか、他人と比べて自分の子どもは良くないのではないか、劣るのではないかといった考え方は一切なかった。
「母の子育て観が良かったのだと思います。大きな影響を受けました」
母の職業はプロのバレエピアニスト(バレエの稽古時に弾くピアノ伴奏者)だった。いわば自営なので、仕事のときは知人に預けるなどして育児と両立させることができたのかもしれないが「あの嵐のような子育て期をどう乗り切ったのか。謎です」(内田さん)。
謎はもうひとつ。ピアニストなのに、内田さんに一度たりともピアノを勧めなかったのだ。内田家には、母が実家から運んできた古いアップライトのピアノがあり、母が練習する後姿をいつも見てきた。だが「一緒に弾こう」とか「鍵盤叩いてごらん」などと誘われたこともない。「作曲家になるんだったら、ピアノをやっておけばよかった」と言う内田さんは、なぜ勧めなかったのか母に尋ねた。すると、こう言われた。
「あなたは小さいころ、鍵盤の前で遊びはするけれど、別にプロフェッショナルなピアニストになるまでの興味は示さなかった。やりたいって言えばやらせるけど、言い出さないんだったら無理にさせる必要はないかなって思ったの」
対する母のピアノへのパッションは凄まじかった。3歳半のときに、両親に手をついて「ピアノを習わせてください」と頼んだ。母は「(内田さんの)おじいちゃんも、おばあちゃんも、ものすごくびっくりして。なんだかわかんないけど、この子にはピアノを習わせなきゃって思ったらしいよ」と内田さんに話してくれた。
「好きなことをしなさい」母の信念
母は幼少時、グランドピアノがあるような裕福な家庭で育った。だが、祖父が詐欺に巻き込まれ、家が差し押さえになってしまう。グランドピアノは売り払われたものの「その後、祖母が自分のへそくりで、今うちにあるアップライトピアノを買ってくれたそうです」(内田さん)。
母親のピアノへの情熱の背後には、このようなドラマがあったのだ。母親は自身の経験を通して、内田さんが主体的に動くまで一貫して待ち続けようと決めたのかもしれない。
こうしてみると、内田さんの母親はジェットコースターのような人生を歩まれている。子どもたちも、第一子の拓海さんは不登校、妹2人はそれぞれ高校を中退したり、転校するなどし、一筋縄ではいかない兄妹のようだ。内田さんは「父親も複雑な人生を背負っていました。なんと言うか、わが家はストレートな人生を誰も歩んでないんですよ」とほほ笑む。
家族は、6~8畳の部屋が4つある2階建ての家に肩を寄せ合うように暮らした。ピアノはあったが、内田さんの勉強部屋はなかった。決してお金にゆとりのある暮らしではないのに、母親は内田さんに「好きなことをしなさい」と言ってくれた。小学生の年齢のころは英会話教室など習い事もやらせてくれた。通信制の高校に行き、東京藝大の受験を決めて以降、母親はピアノの仕事に加えて、コンビニエンスストアで夜勤のアルバイトとのダブルワークをして、家庭教師を科目や実技別に3人もつけてくれた。わが子が「好き」を極めるため立ち向かう道を、親として必死に耕し続けたのだろう。
「よくあんなに必死で働いてくれたなあって感謝しています。お肉はこのスーパーで買う。野菜はここで、牛乳はここで買うって決めてて、はしごして1円でも安く買って生計を立てる姿を見て育ちました。自分はそういうの嫌だなぁっていう気持ちもあった。すごい頑張ってくれてるなあと思いつつ、貧乏っていうのは誰も悪くないけど、嫌だなってずっと思っていました。そこから抜け出したいみたいな気持ちもありました」
不登校の経験が今の人生に繋がっている
環境は厳しかったが、母たちの子育てには「好きなことを存分にやりなさい」という筋が通っていた。親戚から、内田さんの不登校を「大丈夫なの?」と心配されたり、父方の祖父から「拓海の不登校は子育てが悪いからでは」となじられても、「いきなり学校に行けとか言い出さなかった。母は懸命に耐えていたと思う」と内田さんは唇をかむ。
「当時のことを聞くと、これはなるようになるだろうと思っていたと言ってました。つまり、私を信じてくれたのだと思います」
祖父は、藝大に合格したことをとても喜んでくれた。そして、内田さんの母親に「あなたの子育ては正しかった」という趣旨の手紙を書き送った。後年、孫が作曲家になった報告を受けてから亡くなった。
「そういう意味で、わが家には一種のコンフォートさ(快適さ・安心感)があったことは否定できないかもしれません。一番近い大人である親の価値観が、私たち子どもにとって非常に適切でした。ま、暮らしぶりはカオスでしたが(笑)」
これまでの連載で紹介した子どもたち全員が、不登校という一見するとマイナスの要素を背負って生きてきた。ところが、マイナスがプラスに転じたり、人を伸ばしたりするのはよくあることだ。内田さんは「好きなことをして貧乏から抜け出す」ことを強く意識したからこそ受験勉強をやり切れたのではないか。
「不登校の間、9年という膨大な時間を『考えること』に費やした。宇宙や地球のことなどさまざまなことを考え続けたことが、今の人生につながる力になっています。大学院での研究や作曲の仕事にも役立っています。すべてひっくるめて栄養にしたのでしょう」と内田さんは思っている。
不登校でも人生楽しくなる。なんとかなるよ――。子どもたちにそう伝えたい。