「書けない」ことを「書く」ことにデビュー以来ずっとこだわってきたのが、作家の髙橋源一郎さんであるといいます。
37年間、書くことで生きてきたーー批評家の佐々木敦さんが、「書ける自分」になるための理論と実践を説き明かす『「書くこと」の哲学 ことばの再履修』(講談社現代新書)。本記事は同書より抜粋・編集したものです。
「高橋源一郎」的「問題」
前に、私は「「書けなさ」の原因は、自分自身にある場合と「書きたいこと」の側にある場合とが」あると述べておきましたが、「書きたいこと」を蝕(むしば)む「書けなさ」という問題は、自分にとって非常に重要な、人生を変えてしまうほどに決定的な出来事について書こうとする場合にこそ、目の前に立ちはだかります。
このことにデビュー以来ずっとこだわり続けている日本の作家がいます。高橋源一郎です。
2006年発表なのでもうかなり昔の文章ですが、私は以前、この問題にフォーカスを絞った高橋源一郎論を書いてみたことがあります。それは次のように始まっていました。
「高橋源一郎」的「問題」とは、つまるところ、次のようなものだ。
書けないことを書くにはどうしたらいいのか?
こんなたったの一行に還元できる「問題」に、ひたすら「高橋源一郎」はこだわり続けている。登場した時からそうだったし、途中もずーっとそうで、今も(たぶんますます)そうだ。
では「書けないこと」とは何か? ここには、「書き得ないこと」ということと、「書きたくないこと」ということ、の二つの意味の次元があって、そしてその二つはかなりややこしく絡み合っている。そして更に、それらの少し下の方には、「書くべきでないこと」とか「書いても仕方のないこと」とか「書くのが面倒くさいこと」とかがあったりする。ともかくも「高橋源一郎」にとって、「書けないこと」へのこだわりは、そのまま「書くこと」の起動力であり、つまりは「書くこと」の存在理由でさえある。
「高橋源一郎」は、「書けないということ」を、確認し反復し強化しながらも(彼はそうせずにはいられない)、それに必死で抗って(彼はそうせずにもいられない)、それゆえにこそ「書く」(そうしなくてもいいのかもしれないと彼は時々思う)。結果として「高橋源一郎」の「小説」は、極度の抵抗/摩擦との闘争の場の相貌を露骨に帯びることとなり、それは時として奇妙にいさましく見えたり、奇妙に滑稽に見えたり、ひどくかなしく見えたり、ひどくだらしなく見えたりもする。
(「「黙秘権を行使します」──高橋源一郎論」)
ここまでの話と完全に繋がっていますね。自分の考え方/書き方のあまりの変化(進歩?)の無さに少々うんざりしてきますが、それはまあ仕方ないとして(要するにこれは私自身の問題でもあるということだと思います)、高橋源一郎という小説家にとっては「書けない」ということが「書くこと」の最大のエンジンであり、と同時に最大のブレーキでもある、ということです。文字通り、彼は書けないことを書きたい。むしろ書けないことだからこそ書きたい。書けないことを書くために、彼は作家になったのです。
「書きえないことを書くこと」
もう少し、大昔の拙論から引用してみます。
どこかに「書きたいこと」や「書かれるべきこと」(「書くべきこと」ではない)があって、それは確かにあるのだが、しかし「書くこと」によって「書かれたこと」となる筈の「そのこと」を、どうしても「高橋源一郎」は、どこまでいっても/そもそものはじめから「書き得ないこと」と考えてしまう。それはつまり、体験や記憶や情動といったようなものと、言葉や文法との偏差が、絶対的に超え難いものとしてその都度立ちはだかるということなのだが、(…)それはしかし、絶対的に超え難いとその都度思えてしまうとはいえ、たとえば「書くということ」そのものの根底に鎮座する実のところ結構ポジティヴな否定性というようなこととはぜんぜん違う。
そうではなく、「高橋源一郎」にとって、その「偏差」とは、必ずや、いってみれば「技術的」「方法的」にクリア出来る筈のものなのである。そのことが彼にはわかっている。「書きたいこと」や「書かれるべきこと」は、いつかは「書かれたこと」になってしかるべきなのだ。しかし、にもかかわらず、「高橋源一郎」には、未だに「そのこと」を果たすことが出来ていない。出来てない、まだ出来ない、ずっと出来ていない、と彼は思っている。なぜ出来ないのだろう? どこかがまちがっているのだろうか? しかしそれでもいつかは必ず……とも「高橋源一郎」は思っている。なぜなら、それは、よくよく考えてみれば、どう考えてみても、ほんとうは「書き得ないこと」でもなんでもないからだ。
だから、いわゆる「書くこと」が何もない、というのならば、実は全然ましなのだ。だって「書くことが何もないということ」についてなら、まだいくらでも書けるのだから。「問題」は、ここに(そこに?)「書くこと」は現に頑として在るのに、それがいつの間にか常に既に「書き得ないこと」にすり変わってしまう、そうとしか思えなくなってくる、ということにこそある。そしてまた、それはあくまでも「技術」と「方法」の「問題」としてあり、だからこそ、いつまでたっても/どこまでいっても、「書き得ないこと」を「書くこと」を諦めることが出来ない、ということにある。
(同前)
「書きえないことを書くこと」。繰り返しますが、それでも書いてしまうことはできるし、実際に書けてしまう。たとえ誰かに「そんなのでは書けたことにはならない」と言われてしまうのだとしても、とにかく書くことはできてしまう。
ランズマンのようなあらかじめの全否定を受け入れるのなら別ですが、とにかく書いてみることから始めて、書き続けていけば、少しずつでも上手くなって「書きえないこと」を「書きえたこと」に近づけてゆくことができるかもしれない。「技術」と「方法」の問題だというのは、そういう意味です。
「書きたくないのに書きたいこと」
引用を続けます。
「高橋源一郎」は、誰かに「書くこと」を適当に与えられさえすれば、自分は何だって書ける、というような意味のことをしばしば語っている。彼は自分の「技術」と「方法」の研鑽と達成に一定以上の評価を置いているだろうし、優れた「読者」であり「批評家」でもある彼としては、「高橋源一郎」の「技術」と「方法」が、同時代の作家に比して相対的にずっとマシであることは熟知していることだろう。
だが、それでも、いつまでたっても/どこまでいっても、「高橋源一郎」にとって、「そのこと」は「書き得ないこと」として立ち現れてくるし、その結果、そこには「うまくいってないということ」が残されることになる。そして、なぜそうなってしまうのかと言えば、「高橋源一郎」にとって、実は「そのこと」は「書きたくないこと」でもあるのだからだ。
「書きたくないことを書くにはどうしたらいいのか?」。すなわち「書きたくないこと」が、そのまま同時に「書きたいこと」でもあるのだとしたら、そこで生じる「書くこと」への抵抗/摩擦には尋常ならざるものがあることだろう。それは、放っておいたら、あっけなく「書けないこと」に安住し、引きこもって、そこには(ここには?)ないのと同じになってしまう。
(同前)
「書きえないこと」とは、実は「書きたくないこと」でもある。いや、自分では書きたいと願っているつもりなのだが、無意識の底では、ほんとうは書きたくない。でも、それでも書きたい、書かねばならない、でも……という堂々巡り。ことの大小はあれど、このような悪循環が、ここには見え隠れしています。
では、そのような「書きたくないのに書きたいこと」とは、どんなものなのでしょうか? これも昔の拙論からの孫引きですが、高橋源一郎は、こう述べています。
しかし、ほんとうのところ、どの作家も、考えることは一つしかないはずだ、とわたしは思っている。
その一。ほんとうのことをいいたい。
その二。でも、ほんとうのことはいわない。
以上。
それだけ?
そう。それだけである。
(『私生活』)
題名の通り、当時の「私生活」を赤裸々につづった長編エッセイの一節です。書きたいのに書きたくないこと、書きたくないのに書きたいことは「ほんとうのこと」なのだ、と高橋源一郎は言うのです。
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本記事の抜粋元、『「書くこと」の哲学 ことばの再履修』(講談社現代新書)は、読み終えると、なぜか「書ける自分」に変わっている!ーーそんな不思議な即効性のある、常識破りな本です。ぜひお手に取ってみてください。
書くことは考えることーー
あなたはなぜ「書けない」のか?