『生命の起源を問う 地球生命の始まり』 第2章 06
2025年7月17日
ブルーバックスより『生命の起源を問う 地球生命の始まり』が上梓された。
本書は、科学に興味をもつ者にとって、永遠の問いの一つである、「生命とは何か」「生命の起源はどこにあるのか」の本質に迫る企画である。
著者は、東京科学大学の教授であり地球生命研究所の所長、関根康人氏。
土星の衛星タイタンの大気の起源、エンセラダスの地下海に生命が存在しうる環境があることを明らかにするなど、アストロバイオロジーの世界的な第一人者である。
46億年前の地球で何が起きたのか? 生命の本質的な定義とは何か? 生命が誕生する二つの可能性などを検証していきながら、著者の考える、生命誕生のシナリオを一つの「解」として提示する。
我々とは何か、生命とは何か、を考えさせられる一冊。
ブルーバックス・ウェブサイトにて
《プロローグ》から《第二章 地球システムの作り方》までを
集中連載にて特別公開。
*本記事は、『生命の起源を問う 地球生命の始まり』(ブルーバックス)を再構成・再編集してお送りします。
ユーリーの野望
話がやや途切れてしまった。それはアポロ計画と生命の起源の関係についてである。
実は、この当時の常識、つまり地球が「未分化」で誕生したという考えに従うと、原始の地球のもつ大気は、ユーリー=ミラーの実験の想定のような――もっと正確にいえば、この実験のプロデューサーであるユーリーが想定したような、メタン、水素分子、水蒸気やアンモニアに富んだ大気になると予想される。
地球が「未分化」で形成されると、地表面の温度は低いままである。原始の弱々しい太陽に照らされて、地表は0℃を下回るような低い温度にしかならない。
そのような低温の惑星が地球程度の大きさになると、周囲に存在していた円盤に含まれるガス成分を大気として重力的に捕獲する。円盤のガスには、水素分子やメタン、アンモニアなど還元的なガスが含まれており、これらが、地球の重力に捉えられて、原始の大気になっていく。
もし、そのような大気ができれば、アポロ計画に先立つこと十数年前に行った、ユーリー・ミラーの実験よろしく、生命の材料となる分子が原始の大気で盛んに生成されるに違いない。
そういった生命の材料物質が地表面に降り注げば、オパーリンの唱える「生命のスープ」のように、これらが海のなかで濃縮し、機能をもつ複雑な物質へと化学進化し、やがて生命誕生に至るのであろう。
ユーリーは、ユーリー=ミラーの実験に端を発した、この生命誕生のシナリオをアポロ計画において実証したかったのだ。
当時の常識的な考えによれば、地球は「未分化」で誕生する。となれば、月も同様に「未分化」で誕生するはずである。月は地球よりサイズが小さい分、内部に放射性元素の熱がこもりにくい。おそらく、月の大部分は、今でも初期状態、すなわち「未分化」な状態を留めているに違いない。
アポロ計画では、宇宙飛行士が月の石を持ち帰る。
持ち帰られたその石は、原始の地球を作った「未分化」な原材料であるはずであり、それは隕石のような、多彩な鉱物の塵芥が寄り集まった、宝石箱のような石であるべきであった。
その石はすなわち、原始の地球システムがユーリー=ミラーの実験のごとくであったことの動かぬ証左であり、地球と生命の始まりを解きあかしたという世界中の称賛とともに、月の石はユーリーのもとに届けられるであろう。
月の斜長岩
ところが、現実はそうではなかった。
宇宙飛行士は大量の月の石を持ち帰り、それらが世界中の科学者たちによって分析されたが、宝石箱のような未分化な石など、一つとして見当たらなかった。
その代わり、月の表面全域を占めていたのは、ドロドロに融けたマグマが固まってできた、真っ白、あるいは真っ黒なのっぺりとした溶岩だったのである。
月表面には、大きくいって、白っぽい領域と黒っぽい領域の二つの地質がある。月の黒っぽい領域とは、僕らが月を見たときに、ウサギの模様として見える部分であり、白っぽい領域はそれ以外である。それぞれの領域から、宇宙飛行士が岩石を持ち帰ってみると、月の白っぽい部分は斜長岩という溶岩、黒っぽい部分は玄武岩という溶岩でできていることがわかった。
黒い玄武岩は、地球上で最もありふれた溶岩である。富士山や浅間山、ハワイのキラウエア火山など、数多の火山は玄武岩からなる。海底をなす海洋地殻の岩盤も、ことごとくこの玄武岩である。地下にマグマが生まれ、すぐさまそれが地表に噴き出せば、多くの場合は玄武岩となる。
一方で、白い斜長岩は、地球において、玄武岩ほどありふれた溶岩ではない。アルミニウムやカルシウムに富んだ特殊な溶岩である。これができるためには、特殊な条件が必要となる。その条件とは、巨大なマグマ溜まりが地下深部にあり、それがゆっくりと時間をかけて冷えることである。そのなかで、マグマからマグネシウムや鉄、ケイ素が搾り取られるようにとり除かれ、残ったアルミニウムやカルシウムに富んだマグマから、わずかに斜長岩が析出する、といったようにして斜長岩の岩体はできる。
月では、斜長岩という溶岩が広大にひろがり、地殻をなしている。このような大量の斜長岩の地殻ができるためには、月の大部分、表面だけでなく深部までも含めて、ドロドロに融けたマグマの海――マグマ・オーシャンで覆われていることが必要になる。
月は未分化な隕石からできているという常識が、衝撃とともに大崩れにくずれた瞬間であった。
さらに、この溶岩がいつマグマから冷え固まったのかという年代測定の結果が、衝撃を加速させた。
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