皿が運ばれてくると、テーブル全体に甘いトマトの薫りと鼻腔を刺激するニンニクの薫りが広がる。一口頬張ると、鷹の爪のピリ辛さとともに豊穣なトマトソースが口一杯を満たす。
約半世紀前、渋谷区東にある最新のマンションの一階奥には、この味を求めて連日長蛇の列ができた。その店名は「華婦梨蝶座」。誰もがオーダーした大盛りのパスタは人呼んで「洗面器パスタ」。現在のメニューでは「ダブルサイズ」にその伝統は引き継がれている。
今、イタリア料理チェーン店「カプリチョーザ」には、半世紀前を彷彿させるように客が連日詰めかけているという。その復活の理由は何なのか。今なお続く魅力の源泉は、いったいどこにあるのだろうか――。
連日客が押し寄せる渋谷本店
「いったいどうしたことなのでしょう? なんでこんなに売り上げがあがってるんですか。何か積極的にキャンペーンでもやりましたか」
コロナ禍が明けてしばらくしたころ、カプリチョーザのフランチャイズ部門を手がけるWDI社のスタッフは、直営本部の幹部にそう問いかけた。
本部の答えは「さあ? 特別なことは何もしていませんけど」――それでいて創業47年を迎える渋谷本店は、コロナ前の約3倍の売り上げを記録している。チェーン店全体でも、約120%の売り上げ増だ。
「それには別の理由があります」
株式会社 伊太利亜飯店 華婦里蝶座の副社長、本多理奈氏は言う。
「ここ1~2年、ありがたいことにYouTubeをやっている芸能人の方々から取材が増えて、ネットでの露出が増えました。この前も、とある男性アイドルグループが大食い企画のロケに渋谷本店を使ってくれて、営業時間前に撮影していきました。その動画が公開されると、全国からスーツケースを持ったファンの女性たちが本店に来て、推しのメンバーと同じものを食べていったり……。売り上げ増は、そういった『聖地巡礼』のおかげでもあります」
芸能人たちがカプリチョーザをよく利用しているという話は、20年ほど前からすでに有名なことだった。ことに吉本芸人たちには愛されて、大物タレントも公私に渡ってよく利用していた。
では、カプリチョーザの魅力とは何か。
カプリチョーザを物語る「名コピー」
現在、国内外に直営・フランチャイズ合わせて約100店舗を構えるカプリチョーザ。同店を調べれば調べるほど、その魅力は2つに集約されることがわかった。
それは創業以来47年経つ今も「創業時のメニューが8割残る」という時の流れに負けない「歴史の重み」。そして、当時としては珍しいイタリア本国の修業を経験した創業者、故・本多征昭の生み出した「味の力」にある。
たとえば、2025年度東京コピーライターズ・クラブ新人賞を受賞したコピーライター、齋藤大樹氏が5年前に制作したブランド広告には、カプリチョーザの魅力が存分に表現されている(引用のボディコピーは筆者一部略)。
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「イタについて、42年。」
カプリチョーザが生まれた、1978年。(中略)パスタをアルデンテで提供すると、半ナマだと叱られた時代。バジリコが手に入らなかったため、大葉で代用していた時代。以来42年間。私たちカプリチョーザはイタリアンレストランの草分けとして、日本の地で愛される、本格かつカジュアルな料理を追求し続けてきました。
「全メニュー、シェフのきまぐれ。」
カプリチョーザは、気まぐれという意味。その言葉通り、創業者・本多征昭は、全ての料理の味や量をその時々で変えていました。若いお客様がいらしたら規格外の特盛サイズにしたり――(後略)
「高級料理こそ、安くなきゃ。」
イタリアンはかつて、庶民には手の届かない高級料理でした。そこに目をつけた創業者・本多征昭は、リーズナブルで、しかも大盛りの料理を提供し、多くの人々にイタリア料理を広めることに成功したのです。――(後略)
「料理を作る。工場は作らない。」
カプリチョーザの料理は、すべて手作り。大手のチェーン店が導入しているセントラルキッチン(工場)を持たず、毎朝、各店舗に届いた新鮮な食材を、料理人が一つひとつ丁寧に調理しています。――(後略)
「熱々のうちにお召し上がりくださ…らなくても大丈夫です。」
――(前略)私たちは、出来上がり8分経って食べ始めても、最後まで美味しい料理作りを徹底しています。その理由は、一人ひとりのお客様によって食べ始めるタイミングも、食べるスピードも違うから。――(後略)
「とことん食べ手のことを考えた料理を作れ」
創業者・本多征昭の信念は、40年余り経った今も、脈々と受け継がれています。
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齋藤氏は、イタリア料理人出身のコピーライターという異色の経歴を持っている。2019年にアートディレクターの坂野嵩真氏と共にカプリチョーザに連絡を入れ、「広告を作らせてほしい」と言ってきたという。つまり筋金入りのカプリチョーザファンなのだ。
「青春の味」は受け継がれて
‘78年の創業時、カプリチョーザは本多の個人店だった。ところが、さまざまな業態の店でチェーン展開を手がけるWDI社に口説かれてチェーン店化を承諾すると、数年後、本多の身体はガンに冒されて急逝してしまう。チェーン展開契約は’85年6月。亡くなったのは’88年の7月21日だった。
その死に呆然とする妻と子には、たくさんの思い出と共に、もう一つの宝物が残った。
それは、「チェーン店化しても大丈夫」と本多が残したソースやパスタ、さまざまなアラカルト料理のレシピ群だった。すでに下北沢を1号店とするフランチャイズ店は、吉祥寺、四谷、自由が丘と広がっていた。どの店も長蛇の列が絶えず、フランチャイズは全国に「横へ横へ」と広がっていった。
その味が今では「縦へ縦へ」と広がっている。約半世紀の間にその味は3世代に渡って語り継がれ食べ継がれ、いま新しい世代に新しい感性で広がりつつある。
70年代後半に青春時代を送り、当時からカプリチョーザの味を知る現在の50~60代にとっては、この味は「青春の味」だ。前出の齋藤氏のコピーを審査した大阪コピーライターズクラブの審査員も、こう評価している。
「あのカプリチョーザ。青春のカプリチョーザ。という感じで思い入れのある僕には刺さりました。すでに知っている客をさらに好きにさせるのも立派な広告」
「梅田ロフトにあったカプリチョーザに青春の思い出があり、カプチョと呼んでいました。カプチョで食事して、このポスターを見たらすごく嬉しくなると思います」
様々な世代の人にとっての青春の味が「変わらずに」出てくるのだから、カプリチョーザの存在感は今でも不変だ。その味について、斎藤氏のような若いコピーライターやYouTubeを駆使する芸能人が若い感覚で表現すると、その魅力が20代、30代にも伝播するのは当然だろう。
【つづきを読む】『カプリチョーザを再ブレイクに導いた、超人気「トマトとニンニクのスパゲティ」の奇跡…“思い出の味”がコンビニでよみがえる』