「状況芳しくなく、腹は決まっています」
「これが最後の通信になるかもしれません」
「足の悪い者や病人は濁流の中に呑まれて行く」
最前線、爆弾投下、連絡員の死、検閲……何が写され、何が写されなかったのか?
新刊『戦争特派員は見た――知られざる日本軍の現実』では、50点以上の秘蔵写真から兵士からは見えなかった〈もうひとつの戦場〉の実態に迫る。
(本記事は、貴志俊彦『戦争特派員は見た――知られざる日本軍の現実』の一部を抜粋・編集しています。秘蔵写真の数々は書籍でお楽しみいただけます)
特派員の叫びは新聞社首脳の耳に届いたか
日中戦争が勃発した後、大毎・東日の首脳部はどのように動いたのか。彼らは、社員や読者の戦意や愛国心を煽り立てていただけではなかった。「感謝」「慰労」「視察」など、さまざまな名目を掲げながら、特派員と同様に戦地を渡り歩いていたのである。
では、その「巡回」の裏に隠された狙いとは、いったい何だったのか——。この章では、これまで語られることのなかった新聞社トップたちの戦時の足跡を掘り起こし、戦争と新聞社との秘められた関係を明らかにする。
(1)二巨頭体制の発足
日中戦争から太平洋戦争に至る8年間は、大毎・東日(1943年に毎日新聞に題号を統一)における高石真五郎(会長在位1938〜1945)、奥村信太郎(社長在位1936〜1945)による二巨頭時代とかさなる。
大毎・東日の販売部数は、あわせて240万部を突破し、戦前の絶頂期となった時期であった。同時に、日本が戦争に突入し、新聞社も読者も急速に疲弊した時代であることは間違いなかった。
高石が会長に就任したとき、高石会長59歳、奥村社長が62歳。「学校が同じ、下宿が同じ、職場が同じで、遊びも亦同じであった。借金をし、質屋通いもした」という仲で、共に権力志向の二人であった。
高石は、国際的なジャーナリストとして名を馳せていた。ロンドン特派員時期も含めて、1902年から7年あまり、日本を離れていた。20代のロンドン留学中にハーグの万国平和会議を取材したり、日露戦争後のロシアに特派されたりして異彩を放った。さらに30代で外国通信部長、政治部長、40代で主筆、50代で編集主幹を歴任する。その間も、海外への視察や外遊を重ねていた。
一方、奥村は、日露戦争のときに従軍記者を務めた経歴があり、内国通信部、社会部、編集総務、印刷局、営業局などに在職する。社内事情に通じるキャリアを着実に歩んでいた。国際派の高石会長と社業一途の奥村社長とはバランスのとれたパートナーであった。
しかし、時代は満洲事変から日中戦争、太平洋戦争に邁進していた。
高石のような国際派ジャーナリストが自由に活躍する場は、新聞業界からはなくなっていた。会長時代の高石も、国粋主義者のような言動を弄せざるを得ない時代に変わっていたのである。
実際、新聞がいつ廃刊に追い込まれるかわからない時代、戦意高揚を煽る時代であった。社賓の徳富蘇峰、東日編集総務の上原虎重、東日東亜部長の吉岡文六など社内主戦派が幅をきかせる時代でもあった。奥村のように社業一途の人間にも、つらい時期であったろう。
二巨頭体制は7年間つづいた。表には出せないさまざまな困難がともなったはずである。
しかし、彼らが守りつづけた新聞というメディアが、「軍部の一機関紙」(楠山義太郎の弁)に転換したことも否定できない事実であった。その結果、多くの社員が亡くなった。このことは、社葬や告別式で彼ら首脳陣がよく使っていた「遺憾」や「残念」のひと言ではすまされない悲劇であった。
二巨頭体制の時代は、人命と社業とが天秤にかけられた時代であったといえる。
本記事の引用元『戦争特派員は見た――知られざる日本軍の現実』では、日中戦争から太平洋戦争、その後まで、特派員の人生や仕事からその実態を描いている。書籍には50点以上の秘蔵写真を収録していますので、ぜひご覧ください。
貴志俊彦(きし としひこ)
一九五九年生まれ。広島大学大学院文学研究科東洋史学専攻博士課程後期単位取得満期退学。島根県立大学教授、神奈川大学教授、京都大学教授などを経て、現在はノートルダム清心女子大学国際文化学部嘱託教授。京都大学名誉教授。専門はアジア史、東アジア地域研究、メディア・表象文化研究。主な著書に『イギリス連邦占領軍と岡山』(日本文教出版株式会社)、『帝国日本のプロパガンダ』(中央公論新社)、『アジア太平洋戦争と収容所』(国際書院)、『日中間海底ケーブルの戦後史』『満洲国のビジュアル・メディア』(以上、吉川弘文館)、『東アジア流行歌アワー』(岩波書店)など、多数の研究成果がある。最新刊『戦争特派員は見た』(講談社現代新書)。