「状況芳しくなく、腹は決まっています」
「これが最後の通信になるかもしれません」
「足の悪い者や病人は濁流の中に呑まれて行く」
最前線、爆弾投下、連絡員の死、検閲……何が写され、何が写されなかったのか?
新刊『戦争特派員は見た――知られざる日本軍の現実』では、50点以上の秘蔵写真から兵士からは見えなかった〈もうひとつの戦場〉の実態に迫る。
(本記事は、貴志俊彦『戦争特派員は見た――知られざる日本軍の現実』の一部を抜粋・編集しています。秘蔵写真の数々は書籍でお楽しみいただけます)
加工された写真
当時の報道写真には、その真実性ゆえに「不許可」とされたものがある。さらに、報道写真とは言いがたい加工写真や、なかにはフェイク写真と呼べるものまでもが、新聞紙面を飾ることがあった。
現在では画像編集ソフトを用いて容易に写真を加工できるが、当時の新聞社には写真修正師(レタッチマン)という専門職の技師が在籍しており、被写体の削除や、ときには手書きでの加筆などの作業をおこなっていた(『情報・通信・メディアの歴史を考える』)。
毎日新聞が保有する戦中写真の中にも、赤字で部分削除の指示が書き込まれた写真や、合成写真であることが確認できるものが存在する。赤字で「この写真はダメ」と明記された落下傘部隊の写真(写真は書籍『戦争特派員は見た』でご覧ください)は、その後者の例である。上半分と下半分との整合性がないことは一目瞭然であり、一見してフェイク写真とわかるため、「不許可」となった。
「カメラマンの血のかよった分身」
毎日戦中写真には、69冊の写真台帳と、写真とネガをあわせて6万点以上が残っている。それでも、もともとあった数量の一部にすぎない。
写真台帳には、貼付された写真と共に、受理の日付、掲載紙/誌、検閲結果などの記載がある。さらに、陸海軍両省、内務省、内閣情報部(1940年12月に情報局に改組)などの検閲を受けたことを示す「検閲済」や「不許可」などのスタンプが押されているものもある。
これらは当初、大阪本社の地下室に保管されていた。その後、(時期ははっきりしないが)隣接する梅田ホテルに移された。このとき、ネガだけでも木箱150個近くあったと言われている。木箱一つには約2000枚が入る勘定だったので、概算で30万枚ほどのネガがあったことになる。膨大な量であった。
大戦末期、この写真の整理作業の中心となったのは福島貞次郎であった。福島は、13歳のとき、大毎で給仕をしながら商業学校に通学していた。その後、写真部員に登用され、特派員として華南、仏印に派遣され、帰国後は徳島新聞、新大阪新聞への出向も経験している。戦中を通じて写真の保存作業をつづけ、戦後は大阪本社の副部長を務めた。
1944年末に大阪空襲が始まると、戦火を避けるために、選ばれた写真だけが30センチ×40センチのブリキ缶に詰められ、一時的に奈良県生駒郡富雄村(現・奈良市)にある王龍寺に移管された。山門そばの円満寺に社会部記者の藤田信勝(カリフォルニア州出身、京都帝大卒、『敗戦以後』などを出版)の一家が疎開していたことが縁であった。
この隠匿行動は写真部のなかでもごく一部の者しか知らなかったため、王龍寺の住職と藤田との関係はもちろん、移管の経緯や分量はわからない。ただ現場へ行ってみると、富雄駅(近鉄奈良線)から王龍寺まで、安田清一写真部員らがリュックサックで繰り返し運ぶのは大変な作業であったことだけはわかる。
「終戦」直後、軍は報道写真が戦争責任の証拠になりかねないことを懸念し、廃棄命令を下した。しかし、毎日新聞大阪本社も、朝日新聞大阪本社も、密かにこの軍令を無視した。ただ、大毎写真部長の高田正雄は、王龍寺に迷惑がかかるといけないとの判断から、寄託していた写真を運び出して、大阪本社の地下金庫室に隠した。
高田は、1930年代は満洲、上海、ベルリンに特派され、1936年にはベルリン五輪開会式でヒトラーを撮影している。「終戦」を挟んだ1941年から1946年までは、大毎写真部長の任にあった。
さらに、高田は毎日戦中写真について、「写しとめた厖大なネガは、私たちカメラマンの血のかよった分身である」との名言を残している(日本報道写真連盟会報「報道写真」1962年)。高田のような社員がいなければ、この写真群は残らなかっただろう。
こうして、毎日戦中写真は戦火を逃れたものの、戦後に見舞われた台風被害でその一部が被災したと聞く。現在、大阪本社で保管されている写真台帳やネガは、戦災、自然災害、その他数々の運命を掻いくぐって残った「時代の証言」なのである。
本書の構成
この本では、前線の取材がいかにして紙面を飾り、読者に届けられたのか、あるいは検閲などによって公表されなかったのか、その全プロセスを考える手立てとして、新聞社の特派員に焦点をあてたいと思う。
特派員といっても、支局などに派遣される者と、発生した事件取材のために一時的に派遣される者がいた。いずれにせよ、一般に記事を書く者や報道写真を撮るカメラマンと見なされがちであるが、じつはそこに焦点をあてるだけでは見えてこないものが多々ある。
たとえば、無線で伝達する電信課員、製版や組版を担当する工務部員、記者と本社との連絡をおこなう渉外部員、新聞社どうしをつなぐ連絡部員、記事や写真を前線から移送する連絡員、記者たちの空撮や彼らの移動を担う航空部員、販売普及を担当する業務部員、ときには戦跡を自ら見て回る会長や社長を含めて、話を進めていきたい。これら新聞事業にかかわるすべての人びとを対象に、戦争と報道との関係を紐解き、現在の時代を生きる読者に提示したいと思っている。
第1章では、日中戦争が起こったときの大毎・東日の特派員たちと、彼らを取り巻く状況を取り上げる。報道体制は満洲事変のときと異なり、なぜ多くの特派員が中国大陸に送られなければならなかったのか、彼らは広大な中国大陸でどのような不測の事態に直面したのかを探る。
第2章では、盧溝橋事件勃発の翌年に、大毎の高石真五郎会長、奥村信太郎社長によっておこなわれた「皇軍感謝使節」について解説する。どこを巡回し、誰と会い、いかなる交流をしたのか、どんな施設を訪問・視察したのか。そして彼らの真の目的は何だったのかを明らかにする。
第3章では、太平洋戦争勃発以前に中国大陸各地で起こった局地紛争と、従軍特派員たちの行動との関係と共に、スクープ合戦の中で起こった特派員の悲劇について言及する。
第4章では、太平洋戦争勃発後、帝国日本の周縁で起こった米軍やイギリス連邦軍との戦闘について言及し、太平洋域の僻地や離島で特派員たちが直面した問題を検証する。
第5章では、毎日新聞社の特派員や出向社員らの死亡が最も多かったフィリピンで起こった悲劇を跡づけたい。あわせて、こうした事態が起こった原因として、陸海軍両省の命令によって進められた南方地域での新聞社運営の委託事業について考える。
第6章では、戦時検閲の仕組みと共に、毎日戦中写真に残された「不許可」写真とは何だったのか、具体的に解説を加えたい。そこに、報道特派員が撮らなかった/撮れなかった戦争の真実に迫る。
記憶の継承のために
時代の記憶が風化するのと同様に、新聞社に残された写真や社内資料だけでなく、さまざまな組織や個人が蓄積してきた記録や記憶も、未来永劫不変でありつづけることはない。
実際、太平洋戦争勃発の際、ハワイでの奇襲攻撃は知っていても、その数時間前に日本軍の銀輪部隊(自転車部隊)がマレー半島を南下し、戦争勃発の引き金となった事実は、少なくとも日本では風化された記憶になっている。
一方で、戦争の被害を被ったマレーシアやシンガポールでは、こうした戦争の記憶は、学校や博物館だけでなく、家庭内でも継承されつづけている。戦争に関する記憶のギャップは著しい。
世界で戦争や紛争がつづく中、私たちにとって「戦後」とは何なのだろうか。
果たして、戦争の記憶を継承することはできるのか。
特派員たちは現場で何を見たのか。
ひとりひとりの仕事と人生を追うことで、知られざる「戦争の実態」が見えてくる。
本記事の引用元『戦争特派員は見た――知られざる日本軍の現実』では、日中戦争から太平洋戦争、その後まで、特派員の人生や仕事からその実態を描いている。書籍には50点以上の秘蔵写真を収録していますので、ぜひご覧ください。
貴志俊彦(きし としひこ)
一九五九年生まれ。広島大学大学院文学研究科東洋史学専攻博士課程後期単位取得満期退学。島根県立大学教授、神奈川大学教授、京都大学教授などを経て、現在はノートルダム清心女子大学国際文化学部嘱託教授。京都大学名誉教授。専門はアジア史、東アジア地域研究、メディア・表象文化研究。主な著書に『イギリス連邦占領軍と岡山』(日本文教出版株式会社)、『帝国日本のプロパガンダ』(中央公論新社)、『アジア太平洋戦争と収容所』(国際書院)、『日中間海底ケーブルの戦後史』『満洲国のビジュアル・メディア』(以上、吉川弘文館)、『東アジア流行歌アワー』(岩波書店)など、多数の研究成果がある。最新刊『戦争特派員は見た』(講談社現代新書)。