「今回のNスペは凄まじいらしい」
東京・渋谷にあるNHKの局内で、こんな噂がささやかれている。
噂の的になっているのは、NHKスペシャル『命を診る 心を診る』である。7月13日の夜9時から放送される。
番組は、「小児集中治療室」をあつかったものだ。
小児集中治療室は、一般的には「PICU」(Pediatric Intensive Care Unit)と呼ばれる。命の危機にさらされた0歳から15歳までの子どもたちに、緊急かつ専門的な治療をほどこすための施設である。
ディレクターをつとめたのは、下村幸子(しもむら・さちこ)さん。1993年にNHKの関連会社である「NHKエンタープライズ」に入社し、ドキュメンタリー畑を歩んできた。これまで、医療や看取りの現場を取材。周囲は「生粋のドキュメンタリスト」と呼ぶ。
今回のNスペでは、東京の成城にある「国立成育医療研究センター」のPICUに密着。日本で最大の小児専門の病院で、2024年10月から2025年4月までの半年にわたってカメラをまわした。
PICUとはどんな場所なのか。番組はどのようにして生まれ、下村さんはなにを感じたのか。話を聞いた。
一瞬で状況が変わる現場
——事前に拝見した『命を診る 心を診る』、凄まじい迫力でした。
命の危機にさらされた子どもたちが懸命にたたかう姿、子どもたちを前に祈ることしかできない親御さんの様子、子どもたちを助けようと格闘する医師や看護師たちのプロ意識……。涙なしに見られない番組でした。
取材はどのようにおこなったんですか。
下村:今回は成育(国立成育医療研究センター)に、ほとんど毎日のように通っていました。
——文字通り密着ですね。
下村:心配になってしまって。一瞬で事態が変わってしまうので。
PICUはギリギリの状態にある「最重症患者」が入ってくるところで、しかも子どもさんはすごく変化が激しい。だから、何日か行かないとガラッと状況が変わってしまう。おこがましいですが、自分自身がもう親のような気持ちになってしまうところもあって。
——取材はお一人ですか?
下村:はい、一人です。(カメラを手に)本当にこれをだけを持って。スイッチを入れたり、カメラをおろしたり。
なにか起きると、カメラを持ったまま、(前のめりになりながら)こうやって取材対象に近づいて撮ります。医療現場は、いろいろな機器の電波が飛んでいるから、ワイヤレスマイクが使えないのです。なので、音をちゃんと録ろうとすると、近づかないといけなくて。
カメラは、酷使しすぎたせいでだんだんマイクの留め具がすり減ってきて、いまはボンドで留めてます(笑)。
——使ったのはカメラ一台なんですか?
下村:はい、ほとんどこれだけです。
——取材で使われたこちらのメモは、付箋の量がすごいです。
下村:小さいメモ帳ですよね。今回は、取材のあいだ、医師が着る「スクラブ」っていう服を着ていたので、あんまり大きいとそのポケットに入らないので。
——なぜスクラブだったんですか?
下村:病院ではなにを着てもいいと言われていたので、なるべく自分の存在を目立たなくしたいと思いました。忍者と一緒で、なるべく自分の存在を消したいから、先生と同じような服を着ていました。
メモ帳には、「次これを狙っていく」とか「先生のこの言葉の意味を聞く」とか、そういうことを書いてあります。でも、日常的にノートを整理することはできませんでした。もう病院から帰ってくるとヘロヘロで。
——トータルの撮影時間はどれくらいになりますか?
下村:600時間です。
——600時間……?
同席したNHKディレクター:同業者からしても、ちょっと衝撃的な数字です。
「いいお医者さん」はどう育つか
——まるまる25日分にあたる長さですね。凄まじいです。なぜそこまでの熱量をもってPICUを取り上げようと思ったんですか?
下村:ちょっと長くなりますがいいですか?
——大丈夫です。
下村:医療ドキュメンタリーを初めて作ったのは2012年放送のBSスペシャルでした。『こうして僕らは医師になる』という、沖縄県立中部病院の研修医を追ったもので、それが私にとってのはじめての医療現場でした。
下村:同時に、「はじめて自分でカメラを回す番組」でもありました。ロケの前日に机の上にカメラの取扱説明書が置いてあって。プロデューサーの「自分で撮れ」というメッセージでした。
医療現場というすごくデリケートなところに入るのと、沖縄での長期取材の経費節減という意味でも、一人で撮ってこいという指令だったのだと思います。
本当にそれまでカメラを握ったこともなかったのですが、その取説をポツポツ読みながら突入していきました。最初のほうは「床ばっかり映ってる」みたいなこともありました。
——もともと医療という分野に興味はあったんでしょうか?
下村:実は40代のとき、自分が大きな病気をしていて。卵巣嚢腫という病気で、子宮と卵巣を全部摘出したんです。
そのときに、ゴールは同じ全摘であっても、そこにいくまでのプロセスで、自分に寄り添ってくれる先生と、そうではない先生がいらっしゃって。結局自分は、当初の病院をかえて、寄り添ってくれる先生のほうにいったんですね。
そのときに、「いいお医者さんってどうやって作られていくのか」「何を大事にしているのか」というのがすごく知りたくなって。そんな思いでいるなかで、沖縄で研修医を取材する番組を担当させてもらったので、すごく邁進しました。
そこがすべての原点です。
——そこから今回の番組にはどうつながったんでしょうか?
下村:沖縄でドキュメンタリーを撮った10年くらいあとにコロナがまん延し、かつて研修医だった彼らが現場のフロントラインで活躍しはじめた時期とちょうど重なっていました。
そのとき、かつての研修医の一人に密着して広島大学病院のICUを舞台に、ETV特集『命の砦(とりで)~集中治療室 密着40日の記録~』(2023年放送)という番組を作らせていただきました。
下村:その現場は大人のICUだったんですが、そこにお子さんが入ってくることがあったんです。そしたら、子どもだというので、みんなが右往左往して。同じ集中治療でも、やはり子どもの集中治療と大人の集中治療は全然違うんですね。
人工呼吸器の「挿管」をするにしても、子どもは体が小さいので、大人への挿管が専門の方はなかなか入れられない。だからみんな慌てていて。小児への挿管ができる先生がその日は病院に一人しかいなかったんですけど、彼を呼んできてやっと挿管できました。
そういう事態を目の当たりにして、さらに現状を聞くと、広島にはPICUを備えた病院がないということでした。かなり驚きました。その記憶がずっとあって。
そのあと、このICUに密着した番組のことを「集中治療医学会」で発表してくれと言われ、放送を出した年(2023年)に学会発表したときの座長が、中川聡先生という成育PICUの診療部長さんだったんです。お話するうちに、「うちのPICUを見に来てみないか」と言われました。
すぐ成育にうかがって、現場を見たときに直感しました。「これは伝えなきゃいけないな」と。
こういう施設を備えた病院があるということ、でも施設は足りていないこと、専門の医師も足りていないこと。これは絶対伝えたいなと思って企画書を書かせていただきました。
子どもたちのたたかい
——「伝えなきゃいけない」という直感は、もうちょっと詳しく言うと、なにを見て、どのように感じたんでしょう?
下村:まず患者さんだけではなく、その親御さんの姿が衝撃的でした。親御さんは、もう子どもに覆いかぶさらんばかりにして、ベッドの脇にいらっしゃるんですよ。その背中ですね。
それから、医療機器に囲まれた子どもたちが必死にたたかっている姿ですね。未来ある子どもが病気とたたかっている姿は、すごく心に響いたし……なにか「命の塊」がそこにあるというふうに、自分は感じました。
下村:まわりの先生や看護師さんたちも本当にすごくて。看護師さんは子どもたちを取り囲むようにしていつも必死に働いていました。けれど、こういうところに人数が足りないということを伝えたいと思いました。
PICUがないところでは、子どもも大人のICUに入ります。現場のある先生にうかがうと、小児専用のPICUを併設できなくとも、集中治療医が小児も診られると、だいぶ状況は変わるとおっしゃっておられたのを記憶しています。そのようなことも、考えていくべきかと思いました。
総合的なケアのたいせつさ
——実際に現場に入ってみて、どんなことが印象的でしたか?
下村:最初に出会ったときには、「もしかするとこの子は救えないんじゃないか」と思わず感じてしまったほど大変な状況にあったお子さんが、元気になって、歩いて、退院していくところですね。
——愛媛県からやってきて入院していた、9歳の「ゆうせいくん」ですね。たしかに回復するさまに、いち視聴者としてもビックリしました。
下村:ゆうせいくんは肝臓の移植のために入院していて。人工呼吸器が肺の近くまで入ってくるのに、すごく苦しんで。何度も人工呼吸器を自分で抜こうとしていました。
彼がまたね、頑張るんですよ、リハビリを。お母さんのために。親子の絆というか、医療の限界を超えた親子の思いみたいなものを強く感じました。
先生たちも、あの手この手を使って、ゆうせいくんがリハビリをがんばれるように支えていて。看護師さんも、夜眠れないゆうせいくんのそばで、ずっとトントンしてあげる。
それを見ていると、医学的な治療や薬ももちろん大事ですが、そうじゃない部分も多分に影響するように感じましたね。
——ゆうせいくん、足がものすごく細くなっていて、痛ましいものがありました。でも、たしかにつらそうななかにも、パワーを感じさせるものがありました。
下村:壷井先生という方が彼をよく担当されていて、その壷井先生が、ゆうせいくんがベッドのふちのところに上手に座れたときに——重症だからベッドに座るのもひと苦労なんですけど——「カメラに向かってピースして」って言うんです。そしたら、ピースしてくれたんですよ。
お母さんがあとから、「カメラが来ると、うちの子頑張るんですよ」と言ってくださって。普段はつらいところを撮っていると、こちらも申し訳ないというか、自責の念にかられるのですが、そう言われるとすごく嬉しくて。「カメラが力になることがある」と思えました。
縁の下の力持ち
——ゆうせいくんが退院していくさいに、PICUを訪れてあいさつする姿は感動的でした。
下村:そうですよね。PICUって、最重症の患者さんが来るから、完全によくなってPICUを出ていくということは少ないです。命をつなげたら「主科」(患者をメインで担当する科)に回す。いわば「病棟に返す」わけです。ゆうせいくんは、病棟からの退院のときに、あらためてPICUに挨拶をしに訪れました。
PICUの「ゴール」は病棟に患者を送ることですが、その病棟も卒業していよいよ退院というときに、ああやってPICUにも来てくれる。そうすると、看護師さんとか先生たちは喜ぶんですよ。ほとんどのケースでは、主科の先生たちが患者さんから「ありがとう」と言われて出ていくので。その意味で、PICUの先生たちは、本当に「縁の下の力持ち」なんです。
——PICUの先生の仕事については「こういう仕事があるのか」と新鮮でした。
下村:PICUの先生というのは、たとえば脳外科や循環器といった主科の先生たちとタッグを組んで、患者さんが危険な状態になったときにその命をつなぐためのプロです。だから、全身のことがわかっていないといけない。ジェネラリストでなければならないんです。
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さらに【つづき】「東京・世田谷にある「最強の小児病院」、その「集中治療室」のチーム医療がスゴかった…NHKスペシャルが撮った「人を診る医療」の真髄」(7月13日朝6時公開)の記事につづきます。