『「国語」と出会いなおす』(フィルムアート社)の刊行を記念して、著者の矢野利裕と英米文学者の小川公代が対談をおこないました。分断が叫ばれる時代において、なぜ「国語」が問題となるのでしょうか。
教育、物語、そしてケアの倫理──ヴァージニア・ウルフの作品や教室での実践を手がかりに、「国語」の意味をあらためて見つめなおしていきます。
【前編記事】「批評家が、高校生に「国語」を教えて見えてきた「重要なこと」【矢野利裕×小川公代】」よりつづきます。
一緒に読むことからはじまる共感とケア
矢野:小説は孤独な営みだと言われますけど、ぼく自身はあまりその発想は持っていないんです。もちろん、そういう側面が大事なのは分かるし、僕も実際に小説を通じて孤独に向き合う時間もなくはないですが、基本的に自分は常に集団の中にいる感覚が強い。だから小説について考えるときも、孤独と向き合うというよりは、他者との関係のなかで考えることのほうが多いです。このへんは性格ですかね。
小説ファンほど「共感」という言葉を慎重に使う傾向があるように思います。あまりにも安易に共感できてしまう物語は、類型的だと見なされ軽視されたりもする。けれども、だからといって共感をバカにしていいとも思いません。
ぼく自身が小説というものをわりと単純に「共感した」「感動した」っていう気持ちとともに読んできました。太宰治を読んで「これは自分のことだ!」とか凡庸なことを言っていたタイプです。
だから学校の現場でも、生徒が物語の登場人物たちに共感していく過程って、そんなに悪いことじゃないと思っています。もちろん、共感が持つ危うさとか、支配的な力になる可能性があることは理解しますが、それでも目の前で誰かが誰かに共感している。その現場は大事にしたいですね。
「ケア」という観点から考えても、「共感」や「思いやり」は重要なキーワードですよね。教員という仕事って、本当に不思議な仕事だと思います。毎日の授業ひとつとっても、対人関係が思い切り関わってくるから、「これはある種のケアワークだな」と感じることもあります。実際、教員にはケアワークのノウハウの重要性が増しています。まあ、それは感情労働化やブラック労働化と裏表ではあるのですが。
小川:もちろん共感には危険な面があって、この本にも書かれてますがナショナリズムの問題も挙げられるし、植民地化された後、ポストコロニアルな状況で、日本で国語的時間を生きざるを得なかった人たちが実際にいるわけですよね。
これは何を意味するかというと、国語には「人種的同質性」に人を閉じ込めてしまう危険があるということです。それについて矢野さんは、きちんと言語化してくれている。そして、この「人種的同質性」に閉じ込めるという行為こそが、ケアからもっとも遠ざかったあり方です。
私はずっと「ケアの倫理」について書いているけど、なかでも主張したいことのひとつは、決められた価値観から離れて、多様な価値観と出会うための場が必要だということです。でも、日本という社会は、そもそも多様な価値観を許容しにくい社会だと思う。ケアはそこを突き抜けていく道筋を考えることになるんです。
文学という営みは、まさにそのためにあるんじゃないですかね。たとえばヴァージニア・ウルフのような作家は、国家のような共同体を超えた「惑星的な思想」を明確に持っていて、それを小説で表現してきています。そうした物語を経由することで、共同体と対峙する術を学ぶことができる。「戦う」というよりは「飲み込まれない」ということ。そういう訓練だと思います。
矢野:ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』が最近、新潮文庫から鴻巣友季子さんの訳で出たじゃないですか。ちょうどそのタイミングで生徒に課題図書として読んでもらったんですよ。ぼく自身も読みながら「けっこう難解だな」とは思ったんですけど、それでも「難しいけど面白かった」と言ってくれる生徒も何人かはいて、響くところはあるんだなと思いました。
矢野:それでなぜ生徒が読みにくいとか難しいとか思ったかというと、主体がどんどん変わっていくからなんですね。それは今の国語、というより学校教育とはちょっとずれたあり方です。
国語では「主体の獲得」や「個の自立」というテーマが強い、そもそも学校という制度自体がそれを目標にしてると言ってもいいくらいです。「自分の意見を持ちましょう」「他人とは違う自分の意見を表明して、議論をしましょう」——そういう非常に西洋的かつ近代的な個のあり方が求められます。自立した主体を獲得したとき、その変化を指して成長と呼ばれるわけです。
ぼくなんかは教員マインドが根付いてしまっているから、子どもたちが群れのように動いて、たいした考えもなしに周囲と同調するように行動しているのを見ると、「あのさあ、君ら、もうちょっと自分の判断とかないの? 群れてばかりいないでさあ」とか言いたくはなります。でも、ウルフはむしろ、その「個」という考え方自体を批判してるようにも見えるんですよね。
小川:ウルフの『灯台へ』に登場するラムジー夫人はたしかに夫や子どもたちに奉仕するときには、自分の声を見失っているように見えるかもしれません。けれども、ウルフは「意識の流れ」という語りの手法を用いながら、ラムジー夫人や子どもであるジェイムズやキャムたちの「内面の声」はウルフにしっかり与えられています。世間では軽視されてしまう女性や子どもたちの「個」はこうして尊重されているんですよね。
人間ってそもそも、生まれてから最初の10年、15年くらいは誰かに世話されなければ生きていけない存在じゃないですか。「ケアの倫理」を唱えた心理学者のキャロル・ギリガンは、人との関係性によってのみ生きられる存在としての「私たち」というものを提示していて、近代がつくった「分離した自己像」を見直すべきだと述べているんです。
小川:それ以前に「他者からの分離こそが自立だ」と主張していたローレンス・コールバーグという心理学者もいました。でも、それに対してギリガンは、「本当に成熟した人間とは、他者の声に耳を傾けようとするものではないか」と問いかけている。
たとえば女性は、母親になって子供の声を聞いたり、夫の声を聞いたりしながら、日々妥協していく。そうやって他者と対話しようとする姿勢を、コールバーグは「未成熟」とみなした。
でも、他者との間で葛藤し、迷って、決断できない。いわば「優柔不断」とされるような状態こそが、実は一番誠実なんじゃないかと思うんです。そうした葛藤を抱える女性たちの在り方を未熟と切り捨てるんじゃなくて、むしろその迷いこそを大事にしていこう、とギリガンは言ってくれている。
そういう考え方は、ヴァージニア・ウルフの作品にも通じていると思います。ギリガンがウルフから影響を受けたとも言われていますし、ウルフ自身も、そうした葛藤を描こうとしていたのではないでしょうか。
共感についても同じで、共感は危険だとすぐに相対化してしまうのではなく、素直にその感情を受け止めることも大事で、ウルフもギリガンも共感の危険性を十分理解した上で、あえて語っていたと思います。そして、それでも「誰かがケアをしなければ、人はこの世に存在できない」という立場に立っていたということです。あえてケアを実践するなら「明るくケアする」ことを選ぼうよ、という提案でもありますしね。
矢野:なるほど。ウルフやギリガンのように、迷いや揺れをそのまま引き受けていく態度は本当に大事ですよね。迷いと揺れを解消するのではなく、それらを抱えながらなお歩むことを成熟と捉えたい。
小説というものには、単純にそうした揺れ、多様性がそのまま作品の中にありますよね。論理では説明できない感情のゆらぎをそのまま受け取ること、それが「物語」なんだと僕は思います。そして、物語を読むときに読者の中で起きるのは、基本的にはそうした多様なあり方に「引き裂かれる体験」です。
読者が引き裂かれたときに重要なのは、それをどう受け止めるのか、ということです。なにかしらの物語を読んで「共感できた」という感じることは、たしかに危うい可能性もあるかもしれません。でも、それは一方で、日常において「とてもじゃないけど共感できない」と感じた相手に対して部分的に共感の余地が生まれている、ということでもある。
物語を通じて倫理的にまずい人物に対して共感することは良いことなのか悪いことなのか。良いとも悪いとも言えるでしょう。ただ、ぼく自身の価値観や性格、そして現代の状況を考えると、物語を通じて「憎い相手にも共感の回路を開く」ということが大事だと思います。
物語に引き裂かれ、そこから葛藤が生まれる。そこで妥協的にでもどこかで手を取り合い、共感を見出すこと。その「共感の重要性」が小川さんが書かれてきた「ケアの倫理」の核心なんじゃないかと思っています。
矢野:敵対する相手の声に耳を傾けていくうちに、「あ、ここなら握手できるんじゃないか」と思えるようになる。しかも、それが妙に朗らかな、明るい雰囲気の中で、なあなあで手を取ってしまう。敵対する相手との「なあなあ」の手の取り合いが、むしろ大事なのかもしれない。
絶対的に許しがたい相手なんだけど、なんとなく話していたら、なんとなく「まあ、いいか」となって、なんとなく握手をしていた。ものすごくシビアな状況においてこそ、そういう「なあなあ」の瞬間みたいなものの重要性にもう一度目を向けてもいいと思います。物語は、そのようなさまざまな価値観が、一瞬だけでも手を取り合う場所であってほしいと思います。
文学や国語といった話とは関係なく、今の社会において初等・中等教育というものは非常に大事だと思っています。社会を見渡すと「これはさすがに絶対に駄目でしょう」という常識や良識が維持できなくなっている感じがする。あからさまなマイノリティ差別やヘイトなど、かつてはどの国のどの政党も越えなかったであろう一線を今では平気で越えてきますよね。
「この一線は越えない」という共通認識——それはようするに常識・良識ということですが——を持つことは必須だと思います。その共通認識を育む場所として、初等・中等教育は絶対的に大事。予算も人員ももっと圧倒的に増やすべきです。
そのように観点から国語という科目を顧みたとき、物語を通じた共同性というものの大切さが見えてきます。国籍や人種やジェンダーを越えて言葉の意味するところを共有できることの、文字通りの「ありがたさ」。そこに国語という教科の意義があると強く感じています。
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【前編】「批評家が、高校生に「国語」を教えて見えてきた「重要なこと」【矢野利裕×小川公代】」も合わせてお読みください。