赤いストライプやグリーンのユニホームを着たファン、その手に握られた小さな応援傘、球場を囲む豊かな緑と都市風景、夕焼けから少しずつ色を変えていく空。
そしてもう一つ、「神宮球場に来たな」と実感させてくれるのが、球場に響く東京ヤクルトスワローズのスタジアムDJ、パトリック・ユウ氏の明るく伸びやかな声だ。
ファンにとってはすっかりお馴染み、試合に欠かすことのできない存在のパトリック氏だが、どういうきっかけでスワローズのスタジアムDJとなったのか。知られざる経緯とともに、印象に残っている選手や応援歌、スワローズへの思いなどを聞いた。
「スタジアムDJ」へのきっかけ
パトリック氏がスワローズのスタジアムDJとして活動を始めたのは2008年のこと。そもそも、どういういきさつで、スタジアムDJを務めることになったのだろうか。
「古田敦也選手がプレイングマネージャーになった2006年、ウグイスさんと一緒に男性の方がアナウンスを担当されることになったんです。野球が大好きな私は以前から何度も神宮球場に試合を見に来ていたので、『今年から男の人も入ったんだ!』と驚きまして。
以前からスタジアムMCやDJの仕事をすごくやりたかったので、私にもチャンスがあるかもしれないと思い、そこから周囲の方に『スワローズのスタジアムMC/DJをやりたい!』と熱い気持ちを伝えました」
実はパトリック氏は神宮球場の目と鼻の先、東京・千駄ヶ谷生まれ。幼い記憶の中に、スワローズの選手たちがクラブハウスと練習場の間を生き生きと歩いている姿が鮮明に残っていた。
スタジアムMC/DJとして仕事をするなら、やっぱりスワローズがいい。もちろんそんな気持ちがあったという。
「しばらくして2007年に、次のシーズンにも男性のMCを入れようという話になったそうなのですが、私が『やりたい』と声をかけていた会社のひとつがたまたまスワローズの進行演出を行う制作会社で、そこからお話をいただいたんです。
やっぱり、やりたいことは言ってみる、いろんな方に伝えてみるというのは本当に大事ですね。今の自分がいるのは、そのおかげですから」
ヴィッセル神戸との出会い
熱い思いと情熱が実を結び、晴れて憧れていたスワローズのスタジアムDJとなったパトリック氏。この“スタジアムDJ”という仕事の魅力はどんなところにあるのだろう。
「5歳の時に神戸に引っ越して、思春期を越えたころにDJのかっこよさを知り、スキルを磨いていろいろなお仕事をさせていただくようになりました。
そんな中、声をかけていただいたのがJリーグ・ヴィッセル神戸。これが初めてのスタジアムDJのお仕事でした。1995年、阪神・淡路大震災が起きた年のことです。
そのころ、プロ野球では仰木彬監督率いるオリックス・ブルーウェーブが『がんばろうKOBE』というスローガンを掲げて、球場も超満員。勢いそのままに優勝を果たしてスワローズと日本シリーズを戦うことになるなど、大きく盛り上がっていました。
ところが、ヴィッセル神戸は誕生したばかりのサッカーチーム。震災でスポンサーも撤退し、最初のころは競技場に300人ほどしかいなかった。注目もされず、それほど戦力も整っていない。そんなゼロからのスタートだったんです」
だがヴィッセル神戸はそこから少しずつ這い上がっていく。地元の有力選手や海外の有名選手が入団し、応援するファンの数も試合を経るごとに増加。3年をかけ、とうとう念願のJ1昇格を果たす。
そのプロセスをスタジアムでつぶさに見つめ、共に喜びを分かち合えたことに、胸が震えるほどの感動があった。
「みんなで、ひとつのチームを一緒に作り上げていく。そこに大きな魅力を感じ、己のライフワークを見出しました。スタジアムDJという仕事をもっとやってみたい、もっと極めてみたい。そのためにはやはり東京で経験を積まなければと思い、再び上京したんです」
(撮影/濱﨑慎治、取材・文/井上華織)
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