「凄まじい破壊力」はどこから生まれるのか?
核分裂の発見(1938年)から原爆投下まで、わずか6年8ヵ月。「物質の根源」を探究し、「原子と原子核をめぐる謎」を解き明かすため、切磋琢磨しながら奔走した日・米・欧の科学者たち。多数のノーベル賞受賞者を含む人類の叡智はなぜ、究極の「一瞬無差別大量殺戮」兵器を生み出してしまったのでしょうか。
近代物理学の輝かしい発展と表裏をなす原爆の開発・製造過程を、予備知識なしでも理解できるよう解説したロングセラーが改訂・増補され、『原子爆弾〈新装改訂版〉 核分裂の発見から、マンハッタン計画、投下まで』として生まれ変わります。
ブルーバックス・ウェブサイトでは、この注目書から、興味深いトピックをいち早くご紹介していきます。今回は、原子爆弾開発をめぐるセキュリティの問題と、オッペンハイマー事件をとりあげます。
*本記事は、『原子爆弾〈新装改訂版〉 核分裂の発見から、マンハッタン計画、投下まで』(ブルーバックス)を再構成・再編集したものです。
神秘的な光
「僕の兄貴が茨城県・東海村にある日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)に勤めているんだ。その兄貴から、『春休みに見学に来ないか』と言われてるんだけど、君も一緒に行くかい?」
大学生になったある日、級友から受けたこの誘いが、その後の私の運命を決定づけることになった。
一も二もなく同行した私の目を強く惹きつけたのは、同研究所内に設置された「研究用原子炉」であった。研究用原子炉とは、その名のとおり研究目的で造られた原子炉である。実用原子炉とは異なり、発電用に使われることはない。「核分裂反応」の起こる「炉心」が水の中に入っているために外部から丸見えで、「スイミングプール型原子炉」とよばれることもある。
私たちが見学に訪れたその日、主任研究員を務めていた友人の兄君は、原子炉が「臨界」に達するプロセスを実際に見せてくれた。臨界とは「核分裂反応が連鎖的に生じ続ける状態」を指す言葉である。
原子炉が臨界に近づくにつれて、炉心近辺の水からは、じつに神秘的な、淡い青紫色の光がサーッと広がっていくのが見えた。この現象は当時、ソビエト連邦の物理学者だったパーヴェル・チェレンコフ(1904~1990年)が発見したことから「チェレンコフ放射(チェレン コフ効果とも)」とよばれている。
このチェレンコフ放射による青紫色の光を目撃して、なんとも表現しようのない自然の神秘に触れたような感慨を覚えた私は、その瞬間に決意を固めたのだった。
「よし、アメリカに行って原子力工学を勉強しよう!」
オークリッジ国立研究所へ
若者特有の突飛な思いつきと呆れられるかもしれない。
だが、日本初の商業用原子力発電所である東海発電所(日本原子力発電運営)が営業運転を開始するのは1966年7月のことであり (1998年3月末で営業運転を停止後、廃炉となった)、当時の日本の原子力技術は未熟な段階 だった。加えて、原子力工学科を設置している大学も限られていた。
こうして私は、テネシー大学工学部へと留学することとなったのである。同大学では原子力工学科に所属し、原子力工学(nuclear engineering)で修士号を取るつもりだった。修士論文に関する研究は2人の仲間との共同研究となり、修士課程の最後の1年は、テネシー大学から30~40マイルほど離れたところに現在も存在する「オークリッジ国立研究所」で過ごした。
このたび上梓した『原子爆弾〈新装改訂版〉』の第13章で詳述したが、オークリッジ国立研究所は第二次世界大戦中、アメリカの原爆製造計画である「マンハッタン計画」の一部に組み込まれていた。同計画は極秘中の極秘研究であっ たため、まさかまともに「Atomic bomb manufacturing research(原子爆弾製造計画)」などとはよべず、暗号めいた「Manhattan project(マンハッタン計画)」と呼称されることとなったので ある。
オークリッジ国立研究所は、「研究所」というより「工場」といった印象を覚える場所だった。オークリッジの山奥にある施設は3つの部門から成り、各部門がそれぞれ東京大学・本郷キャンパスくらいの規模を持っている。1つの部門から他の部門に行くのに車を使うほどの距離があった。この3つの部門全部が「オークリッジ国立研究所」と称されていたのである。
1960年代にはまだ有効だった、原爆開発という「最高レベルの国家機密」
そのオークリッジ国立研究所で私は、生涯忘れることのできない苦い思いを経験した。
同研究所が設立された目的は、おもに原子爆弾に必要な材料(たとえば濃縮ウラン)を研究・ 製造することにあった。最終的な原子爆弾の製造は、ニューメキシコ州にある ロス・アラモス国立研究所でおこなわれたが、テネシー州オークリッジで製造された「濃縮ウラン」は、真夜中にこっそりと貨物列車でロス・アラモスまで運ばれた。
ロス・アラモスは極秘に計画された原子爆弾の製造工場であるため、それに関するすべての事項、また、それに関わるすべての人たちに対して「セキュリティー・クリアランス(security clearance)」が要求された。
セキュリティー・クリアランスに該当する単一の日本語はないようだが、辞書やインターネット等の情報から要約すれば、「国家機密等の秘密にすべき極秘情報ーーたとえば、政府が保有する安全保障上の重要な情報にアクセスできる人物の適格性を確認し、秘密情報を取り扱う資格を与えること」となる。
なんと長い説明であろうか。「security clearance」というたった2つの単語で構成されている英語に相当する単一の日本語が存在しないということは、日本はそれだけセキュリティー・クリ アランスに甘いということになるのだろうか(ちなみに「安全保障承認」という言葉があるが、 こちらは「security approval」の訳語として使われているようである)。
実は、私が滞在した当時のオークリッジ国立研究所では、戦後20年以上が経った1960年代の後半においても、まだマンハッタン計画時のセキュリティー・クリアランスが適用されていたのである。
国家機密に翻弄された、留学生時代の著者
原子力工学で修士号を得るために私が選択したテーマは、「原子炉(nuclear reactor)」だった。論文を仕上げるためには、どうしても図書館を利用しなければならないのだが、ここで大いに困る事態が生じた。
オークリッジ国立研究所ではセキュリティー・クリアランスが適用されていたため、日本人(外国籍)である私は、図書館の利用を拒絶されたのである。どうやら、当時の図書館にはまだ国家機密に関する書籍や文書が多々残っていたらしいのだが、修士号を得るためには黙って引き下がるわけにはいかない。私は、思い切ってオークリッジ国立研究所の所長に直接、掛け合った。
所長は温和な人物で、ゆったりと落ち着いた口調で私にわかりやすく事情を説明してくれた。なにしろバックにいるのはアメリカ中央政府である。「終戦から20年が経っても、いまだ原子爆弾の国家機密を引きずっているのか……」と唖然としたが、諦めるしかなかった。
幸い、2人の共同研究者たちが私の立場をよく理解してくれ、さまざまに便宜をはかってくれた。図書館を利用することは叶わなかったが、彼らのおかげで無事に修士号を取得できたのである。
オークリッジ国立研究所で私が直面したトラブルとは比べるべくもないが、原子爆弾の開発・製造の歴史において、特筆すべきセキュリティー・クリアランス問題がある。
「オッペンハイマー事件(Oppenheimer Case)」である。
ロバート・オッペンハイマーという物理学者
ロバート・オッペンハイマー(1904〜1967年)は、原子爆弾開発研究の責任者として、マンハッタン計画で重要な役割を果たした。
その詳細は『原子爆弾〈新装改訂版〉』で紹介したが、ここでは戦後に起こった事件について簡単に触れておく。
物理学の重要な分野に「量子力学」があるが、量子力学はヨーロッパで生まれたものである。 第二次世界大戦以前のアメリカでは、量子力学はまだ主流の物理学ではなく、量子力学を深く学 ぶためにはヨーロッパに渡る必要があった。
オッペンハイマーはハーヴァード大学で物理学を学び、優秀な成績で卒業した後、ヨーロッパに量子力学の武者修行に出た。当初はイギリスのケンブリッジ大学で学んだが、その後にドイツのゲッティンゲン大学に移籍し、そこで博士号を取得している。
アメリカに戻ったオッペンハイマーは、カリフォルニア大学バークレー校に助教授として赴任し、のちに教授へと昇進するのだが、当時のバークレー校に共産主義者が多くいたことが、やがてオッペンハイマー事件へと結びついていく。
オッペンハイマーの妻に加え、実弟とその妻、またかつての交際相手がいずれも共産主義者だったからである。彼の周囲には他にも共産主義者である知人や友人が多くいたが、オッペンハイマー自身が共産主義者であったという確たる証拠は、今なお見つかっていない。
オッペンハイマーの指揮の下、2種類の原子爆弾の製造は成功した。一つが広島に投下されたウラン235を用いたもので、もう一つが長崎に投下されたプルトニウム239を用いたものである。
日本に2つの原子爆弾が投下されたことで第二次世界大戦は終結したが、大戦後になって、オッペンハイマーにとっての一大事件が発生した。共産主義との関わりと原子爆弾に関する機密情報をソ連に流出させたという嫌疑がかけられたのである。
オッペンハイマー事件の始まりである。
オッペンハイマーの凋落と死
1950年代のアメリカには、共産主義者、あるいはその同調者に対する厳しい取り締まり運動があった。当時の上院議員であったジョセフ・マッカーシー(1908〜1957年)による“マッカーシー旋風”、いわゆる「赤狩り」が、社会のあらゆるところで猛威をふるっていたので ある。
オッペンハイマー事件を要約すれば、このマッカーシー旋風の下、オッペンハイマーが共産主義者との関わりを理由に政府の監視下に置かれ、セキュリティー・クリアランスを剥奪された事件である。
オッペンハイマーが剥奪されたのは「Qクリアランス(Q clearance)」とよばれるもので、核兵器に関する最高レベルの機密情報にアクセスする権限が認められたセキュリティー・ クリアランスだった。
*「セキュリティー・ クリアランスって、なに?」…このページから読まれた方は、機密レベルの怖さをを説明した、こちらの1ページからご覧ください。
1950年代当時のアメリカでは、原子爆弾に続き、さらに威力のある「水素爆弾」の開発に着手しはじめていたが、オッペンハイマーがこれに強く反対したことが、アメリカ政府(アメリカ陸軍)の感情を大いに逆撫(さかな)でしたらしい。
1954年、アメリカ原子力委員会は4週間に及ぶ聴聞会を開き、オッペンハイマーを査問した。聴聞会には彼の研究仲間たちも証人として立ったが、オッペンハイマーの人格や交際・交友関係、国家に対する忠誠心などから判断して、潜在的な機密漏洩源であると評決されたのである。
その結果、オッペンハイマーはQクリアランスを奪われ、公職からも追放された。
クリストファー・ノーラン監督による2023年の映画『オッペンハイマー』では、水素爆弾の開発に反対したキリアン・マーフィー演じるオッペンハイマーが、アメリカ原子力委員会委員長で水爆開発推進派のルイス・ストローズ(1896~1974年。作中で演じたのはロバート・ダウニー・Jr.)との対立を深めていく姿が描かれている。
公的な意見の相違のみならず、私怨にも駆られたストローズが赤狩りの嵐に乗じ、オッペンハイマーを表舞台から引きずり下ろそうと画策するさまは迫力に満ち、同作の見どころの一つとなっている。
この映画の公開が日本では1年遅れ、2024年に先送りされた事実は、唯一の被爆国である日本と原子爆弾、そしてオッペンハイマーら原爆の開発・製造に携わった者たちとの間に横たわる、複雑で深刻な溝を改めて浮き彫りにするかたちとなった。
オッペンハイマーは1965年、咽頭がんを発症し、術後に放射線療法と化学療法を続けたが、十分な効果は得られなかった。1967年2月18日、ニュージャージー州プリンストンの自宅で、 62歳でこの世を去ったのである。
*続きは、7月13日(日)の公開予定です。
原子爆弾〈新装改訂版〉 核分裂の発見から、マンハッタン計画、投下まで
核分裂の発見から原爆投下まで、わずか6年8ヵ月ーー。
物理学の探究はなぜ、核兵器の開発へと変質したのか?
「永遠不変」と信じられていた原子核が、実は分裂する。しかも、莫大なエネルギーを放出しながら……。近代物理学の輝かしい発展と表裏をなす原爆の開発・製造過程を、予備知識なしでも理解できるよう詳しく解説する。