「ハハは、18年前に78歳のときに東京に家出をしてきました。その1年後、ハハにとって息子、私にとって兄が亡くなってしばらくハハは長崎に戻っていましたが、その後再び東京の私のところに来て、ハハの体調や私の仕事などの都合で、約16年間、長崎に帰っていませんでした」と語るのは、『わたくし96歳#戦争反対』の著者のひとりである森田京子さんだ。「ハハ」と呼ぶのは、もうひとりの著者であり、京子さんの母親でもある96歳の森田富美子さんだ。
富美子さんは、96歳になる現在もX(旧Twitter)に自ら投稿を続け、現在8.5万人以上ものフォロワーを持つインフルエンサーだ。投稿の文末には#戦争反対、#核兵器廃絶、#核兵器禁止条約、#メディアの仕事は権力の監視といった4つのハッシュタグが並ぶ。『わたくし96歳#戦争反対』では、そんな富美子さんが16歳で体験した両親と3人の弟を失った1945年8月9日の長崎・原爆の体験、戦艦大和の乗組員とのやり取りなどの戦時中の出来事含め、96年間の富美子さんの人生そのものを富美子さん本人の視点と、娘である京子さんの視点で綴っている。
FRaU webでは、京子さんに、著書執筆のきっかけから出版後の出来事などを富美子さんと京子さんに起きた変化やエピソード含めて、不定期で寄稿いただいている。今回は、16年間帰っていない長崎に、今年の8月9日に帰る決心をした経緯と思いについて寄稿いただいた。
ハハの真剣な思いと決心
「今年は長崎の平和式典に出たいと思っている」
『わたくし96歳#戦争反対』の発売日の6月4日が迫ったある日、ハハが真剣な顔で言った。
ハハは去年、救急車に乗った。そして入院もした。ハハは常々「私は病院の先生たちに恵まれている。いざというとき、東京は安心」と言う。そのハハが数日とはいえ、東京を離れてもいいと思っている。
「わかった、飛行機とホテルがセットになったツアーを探してみる」
私はそう答えた。ただし、まずは6月4日、本の発売記念イベントが先だ。ハハはいつから長崎行きを考えていたのだろう。口に出して言ったことでホッとしたようだった。
まずは、ハハの主治医に確認を
4日のイベントが無事終了し、次の日から月に1度の病院巡りだ。まずは、皮膚科とペインクリニック。それぞれに出版の報告をし、「先生のことを書いたページには付箋を貼ってます」とサインを入れた本を渡した。
そして、内科。ここでは大切な相談もしなければならない。
「8月9日、長崎の平和祈念式典にハハを連れて行こうと思っています」
私が言うと、カルテを書き込んでいた先生がハッと顔をあげ、こちらを見た。
「長崎、ですか」
「はい、そうです」
ハハは何も言わず、黙って先生の顔を見ている。
「いいじゃないですか!」
先生がそう言い、ハハを見てにっこり微笑んでくれた。緊張していたハハの顔が緩んだ。そして、ハハは言った。
「新幹線はどうでしょう?」
「えっ、新幹線……なぜ?」
どうやらハハは旅番組か何かで、快適な新幹線の旅、みたいなものを見たのだろう。しかし、先生がバッサリと、「飛行機にしましょう。乗っている時間が短い」と言い、「そうですよね」とちょっと照れ笑いをしながらハハが答えた。ホッとした顔。行っていいんだ、私もホッとした。診察室を出るとすぐにハハの耳元で言った。
「すぐにツアーを探そうね」
行くなら静かに手を合わせたい
その1ヵ月ほど前からハハのXには「長崎に帰ることはありませんか」「8月9日はどこで過ごしますか」「長崎で取材をさせてください」というDMが、新聞やテレビなどの報道関係者から届いていた。
それらが届くたびにハハは「うるさい!」と顔をしかめた。「もし長崎に行くとしても、取材は受けない」、そうハハは言っていた。もちろん、長崎に行く計画などなかったときだ。しかし「できれば今年は長崎」と考えていたのかもしれない。そして、行くなら「静かに手を合わせたい」「黙祷をしたい」と思っていたのだろう。だから「うるさい!」だったのだ。
さっそく、ネットでツアーを探し始めた。しかし、よくよく考えれば、今年は終戦から80年、しかも行き先が長崎、それも8月9日。これは大変そうだ……。
そして、問題は何泊にするか。ハハの元気パワーは誰もが知るところ。しかし、脳外科では、2009年に脳梗塞に罹患してからMRIを受けるたび「ギリギリの綱渡りだということは忘れないで下さい」と言われている。さらに、2024年9月にも救急搬送から入院という出来事があった。総胆管には取れないままの石がそのままで、それがいつ何がきっかけで胆嚢や膵臓に炎症を起こすかわからず、要注意状態。これが現実だ。ハハの元気パワーを過信してはいけない。
その日の夕方、駅前の旅行代理店に行ってみた。8月9日の平和式典に出たいと話し、そのための飛行機とホテルのセットをネットで探そうと思っていると伝えた。パソコンですぐに調べてくれた。7日に羽田から長崎、10日に長崎から羽田、3泊4日、これが良さそうだと言う。1日長いとどうか、1日短いとどうかも聞いてみた。1日短くても料金は同じ。1日長いと、つまり11日に東京に帰るとなると料金が跳ね上がる。それは、10~11日が連休だからだ。あとは場所やサービスなど好みのホテルを組み合わせるだけ。聞いて良かった。3泊4日はハハの体のことを考えてもベストだ。帰ったらハハと一緒にホテルを選ぼう。
実は、5月に入ってすぐに私は東京の被爆者援護会に電話を入れた。長崎平和祈念式典に出席する場合、申込みはどうしたら良いか。また、東京に住む被爆者たちが原爆投下から80年の今年、一緒に行動することがあるのではないか、そのようなことを聞きたかった。
長崎平和祈念式典に関しては長崎市に聞くしかないらしく、担当の電話番号を教えてくれた。すぐに電話をしてみたが、「まだ募集はしていない」と言われた。5月の末に募集が始まり、そこから抽選なのだそうだ。
5月15日を過ぎると毎日、長崎市のホームページをチェックした。24日、やっと「被爆80周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典一般参列」事前申込みのサイトができた。申込むと「申込み画面URL」が届き、そこにアクセスして申請をした。「結果は、7月中旬頃通知します」というメールが届いた。道のりは遠い……そう思った。そもそもこのときは、まだ長崎に行く話すら出ていないのに。
新たなる問題が浮上、さてどうする!?
そして、長崎行きに内科の先生の「いいじゃないですか」も頂き、いよいよ飛行機とホテルを決めなければいけない。iPadを開いた。ハハも覗き込んでいる。第一候補はもちろん、駅前の旅行代理店が教えてくれた7日発→10日戻りのコースだ。ホテルはもちろんバリアフリーに……と、そこで気がついた。
「そうだ、車椅子だ……!」
私は前かがみでiPadを覗き込んでいた体をドーンとソファの背もたれに落とした。
「車椅子がどうした」とハハが言った。
「ニューヨークに行ったときのこと、思い出してくださいよ」
「だから、それがどうした」
「私は私のスーツケース、それにあなたのも色々入れて。あなたはあなたのハナエモリバッグ」
「それで行けばいい」
「スーツケースとハナエモリを誰が持つ?」
「自分で持てばいい」
「車椅子を誰が押す?」
そこで初めてハハも気がついた。どうして2人して気がつかなかったのだろう。情けない。ハハの車椅子は軽量でコンパクトで使い勝手がよく、周囲からも「いいね、その車椅子」と褒められる。そのハハの愛車ともいえる車椅子で、日常生活はもちろん、いろんなところに出かけている。出版イベントも取材も問題なくこなしてきた。しかし、3泊4日となると荷物も多く、それが二人分あることをすっかり忘れていた。
取り敢えず妹に電話してみた。家から羽田まで荷物持ちを頼んでみようと思った。彼女も色々忙しい。そもそも妹は力が強いとは言えず、しかもちょっと体調が優れない……。今の彼女にスーツケースとハナエモリは無理だ。ハハを乗せた車椅子を押したり引いたりする電車の乗り降りは、なおさら任せられない。
「やめよう」とハハが言った。
私は「やめない」と即答したかったが、言えなかった。しばらくして、ソファから体を起こして言った。「何とかする」
「ここのところ、いつも思う、あんたが2人いればね〜」とハハが言った。
一度行こうと決めてからのハハは「あの人に会いたい、この人にも会いたい」と電話やメールだけの付き合いになっている人たちの顔を思い浮かべ、再会への期待が高まっていた。私は私で同窓会にも出ることができなかったこれまでを思いながら、中学高校での同級生たちでできたグループLINEを眺めていた。会いたい、みんなに会いたい。
「そういえば、6月4日の書店イベントのときに、編集長さんが長崎からも本のイベントをしたいという話が来ていると言ってなかった?」とハハが言った。
そうだ、確かに!あの日、長崎のメトロ書店からイベントをしませんかという話が来ていると聞いた。あの時は、ただ夢みたいな話だとしか思わず、それで終わっていた。長崎に行ければ、それも実現できるかもしれない。イベントでは会いたい人たちに会えるかもしれない。
「行こう!長崎に行こう。チケットを取る。色んな問題はそれから考える」
ハハの顔がパッと明るくなった。イベントの話はまだ生きているのだろうか。
編集長に「長崎に行きます」と連絡した。
すぐに編集長から「そうしたら、長崎のメトロ書店さんとイベントの準備を始めますね」と返事が来た。
ハハに伝えると、「よし、96歳の夏、頑張るぞ!」と、拳を振り上げた。
私も真似て、「おー!」と拳を振り上げた。
2人でもう一度、「おー!」拳を振り上げた。